小夜に捧ぐ子守唄
世界は音で溢れている。
町に行けば人々の喧騒。森へ入れば鬱蒼と茂る木々が葉を揺らし、草原を歩けば風が一面の緑に軌跡を残していく。
どこへ向かっても音が絶えることはない。
だから今夜も、静かな夜とは言え、決して無音なわけではなかった。
小さな森の中。
わずかに開けた場所に、一人の男が野宿をしていた。
あぐらをかいて座る男の前には、薪が音を立てて燃えている。
男は先刻から、視線を空に転じたまま動く気配もない。
何が男の関心を引いているのか。
空を見上げても、宝石箱をひっくり返したような星空…とはとても言えない。朧月が雲と共に遠く流れているだけだ。
男はそれを飽きもせず眺めていた。
炎に照らされた男の顔には見覚えがある。
元々どこかの国の王子であった人物だ。
それが今や、一人目的のない旅を続ける旅人となっている。
いや、正しくは、目的を探すことを目的とした旅か。
男は自分の歩むべき道を探しているのだ。
闇深い夜空を仰ぐ男の横顔は柔らかい。
炎の色を映した瞳は穏やかで、口元にはかすかに笑みを湛えている。
そういえば、夜を表すのにもうひとつの言葉がある。
小夜。
男は、すべてのものが眠りに就き、世界が凪いでいるこの時が好きだった。
普段は絶対的で、何もかもを黒く塗り潰してしまう闇が、静かな夜ばかりは途端に色を変える。
まるで、女神のように慈悲深くささやき、すべての罪を許してくれるかのように。
男は自分の犯した罪を懺悔したりはしない。
ただ、後悔することはある。
そんなとき、この穏やかな闇の中にいると、なんだか救われる気がした。
男には年の離れた弟がいた。
10年も前に国を出て以来、一度も会うことはなかったが、平穏に暮らしているだろう。
そしていつかは自分の代わりに王位を継ぐことになる。
そんな風に考え、男の中で弟の存在はほとんど記憶の片隅に消えかけていた。
だがあるとき、風の噂に弟の死を知った。
まだ、旅の目的すら持っていない頃のことだった。
男は国に戻ろうとはしなかった。
弟の亡骸と対面したいわけでもなかったし、国外追放された自分が、城に足を踏み入れられるとも思わなかったからだ。
男は以前と変わらず世界を放浪しつづけた。
時折耳に入る母国のその後に哀愁を感じることも、連鎖して頭に浮かぶ弟に哀惜の念を覚えることもなかった。
そもそも昔別れたきりの弟の顔など、思い出すのも不可能だった。
男は淡々と町を巡り、森を抜け、また町を巡ることを繰り返した。
靴底が磨り減っていくのを、まるで無意味に擦り切れていく自分の命のように感じ、これが自分への罰なのだと静かに受け入れた。
また、逃げるにしても、男の咎は呪いのように足元の影に寄り添っていて、結局歩を進めるしか術はなかった。