窓際に立つ小夜が目を丸くして俺を見つめてくる。
じゃあどういうこと?
その目はそう尋ねていた。
「だから、俺が言いたかったのは…」
説明しようとして、途端に肩の力が抜けた。
なんだか急に虚しく思えてきた。
名前の呼び方なんて気にしてるのは俺だけだ。
小夜はこれっぽっちも意識なんかしてない。
そう考えると、一人意固地になってる自分が馬鹿みたいだった。
「…もういいや。変なこと言って悪い」
「でも、しゅーちゃ…」
「いつもどおりの呼び方でいいよ。今俺が言ったこと、全部忘れてくれ」
不思議そうな小夜の視線から逃げるように、ベッドに転がる。
小夜に背を向ける形で目を閉じた。
別に眠たかったわけじゃない。
目を閉じていても眠気なんて全然襲ってこない。
ただ、自分の求めてることが恥ずかしくなっただけだ。
俺も、呼び捨てで呼んでほしい、なんて。
(アホみたいなこと望んだ俺が悪い。ただ呼び方の違いだけじゃねえか。それで何が変わるわけでもねえのに)
そのとき、まぶた越しに影が差したのが分かった。
太陽が雲に隠れたのだろうか。
うっすら目を開く。
顔を上に向けると、
「…朱里」
俺の頬を、上から流れた髪の毛がサラリとくすぐっていった。
影の正体は雲ではなかった。
小夜が戸惑いながら俺の顔を覗き込んでいたのだ。
いや、それよりも。
「お前、今何て…」
俺の言葉に、小夜が顔を赤らめるのが分かった。
小夜は視線を揺らしていたが、すぐに俺の顔に留めると、もう一度呟いた。
「朱里」
小夜の小さな唇が、短い言葉を形作る。
それは、俺の名前。
“──ただ呼び方の違いだけじゃねえか。それで何が変わるわけでもねえのに”
自分でも驚くほど、顔が熱くなっていくのが分かった。
体中の血液が一気に、顔面に集中したみたいだ。
「……っ!」
思わず赤くなった顔を隠すように、手の甲を口元に押し付けた。
おかしなくらい動悸が激しい。
ただ、名前を呼ばれただけなのに。
小夜に“朱里”と呼ばれた。
ただそれだけなのに。
俺がひどく動揺していることは、小夜から見ても明らかだろう。
だからかもしれない。
小夜がもう一度、今度は嬉しそうに俺の名を呼んだ。
「朱里っ」
無邪気に俺の顔をのぞき込んで、小夜は笑う。
小夜がふざけて俺の名を呼ぶ度、俺の顔の熱は馬鹿みたいに上昇する。
小夜の口にする“朱里”には、きっと魔法か何かがかけられてるに違いない。
師匠やジライに「朱里」と呼ばれて、ここまでおかしくなったことなんてない。
小夜だけだ。
「朱里」
まるで、俺の名前じゃないみたいだ。
小夜が呼ぶと、俺の名前は特別なものに変わる。
それが今ようやく分かった。
結局、呼び名の件は今までどおりということで落ち着いた。
俺は今も小夜から「朱里さん」と呼ばれている。
「──朱里さん、今日もいいお天気ですよっ」
小夜は数日前のやり取りなど忘れたように、いつもと何も変わらない。
無邪気によく笑い、俺を呼ぶ。
でも、それでいいんだと思う。
いつか、特別な日のために、あの呼び名は取っておいてほしい。
その特別な日っていうのがいつなのか、今の俺にはまだ分からないけれど──。