どれくらい経っただろうか。
ふいに小夜が両手を広げて、一歩こちらへ踏み出した。
何をしているのだろう。
怪訝に思って見守る朱里に、さらに数歩小夜が近づく。
ある地点まで来ると、小夜の不思議な動きはぴたりと止まった。
そしてまるで見えない何かを抱くように、慎重に両手を折り曲げる。
「…ぎゅうってしてるみたいです」
逆光で陰になった小夜が静かにそうささやいた。
「?」
意味が分からず戸惑っていると、小夜が地面を指差して言った。
「影です」
「影?」
自分の足元に目を落とす。
見れば、いつの間にか小夜から伸びた影が朱里をすっぽり覆っていた。
「私の影が今、朱里さんをぎゅうってしてるんです」
言って、見えない何かを抱く腕に力を込める小夜。
朱里はもう一度小夜の影に視線を落とした。
ちょうど小夜の影の腕部分が、朱里の立っている場所と交わって、まるで本当に小夜の影に抱きしめられているかのようだった。
朱里が気付いてくれたのが嬉しかったのか、表情の見えない小夜から「えへへ」と無邪気な笑い声がこぼれた。
「何やってんだよ、お前は」
「ぎゅうぅ、ですっ」
自分の影が朱里を抱きしめているようだと。
こんな些細なことが、とてつもなく幸せだとでもいうように小夜は微笑む。
だから朱里も思わず、つられて笑ってしまうのだ。
「ほら、もう行くぞ」
朱里の呼びかけに応えてぱたぱたと駆け寄ってきた小夜は、朱里の隣に並ぶと後ろを振り返ってふわりと顔を綻ばせた。
寄り添うように並んだ二つの影法師。
それを見て幸せそうに笑う小夜。
「何がそんなに嬉しいんだか」
なんて言ってる自分もきっと、小夜と同じ顔をしているに違いない。
「なあ、小夜――」
名前を呼ばれた小夜が、すぐ隣で一際嬉しそうに笑みをこぼした。
夕日のせいで、その顔は赤く染まっている。
しかし、その瞳がうっすらと潤んでいるように見えたのは、きっと夕日のせいだけじゃないと思う。
俺は尊大なんだろうか。
お前をこうして呼び捨てにできるのは、俺だけだと思ってる。
名前を呼ぶことでお前を笑わせてやれるのも、きっと俺だけのはずだと。
だって、俺が名前を呼ぶ度に、お前少し泣きそうになるだろ?
気付いてないと思ってるのかもしれないけど、しっかり見てる。
お前が涙をこらえて何度も瞬きしてることとか、「小夜」って呼ばれたほんの一瞬だけ、びっくりしたような顔をすることとか、全部。
全部、ほんとは知ってる。
なあ、小夜。
名前を呼ばれてあんな反応返すのは、俺に対してだけだよな?
まさか他のやつにあんな顔したりしないよな?
他の誰でもない俺がお前の名前を呼ぶ。
それがお前にとっては特別なことなんだろ?
…なんて、聞いてみたい気もするけど、お前笑いそうだからやめとくよ。
こんなこと考えるなんて、思い上がりもいいとこだってことは自分でもよく分かってる。
でも。
願わくば、そうであってほしいと思うんだ。
ほんと柄じゃないけど、切実に。
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