side2:朱里
いつの頃からだろう。
名前を呼ぶと、小夜が一段と嬉しそうに笑うようになったのは。
出会った当初はなかなか名前を呼ぶ、ということができなかった。
気恥ずかしかったし、なんだか落ち着かなかった。
だからあえて直接名前を口にするのは避けてきた。
だけどあのとき。
「…やっと見つけたんだ、俺の宝物」
自分の気持ちを告げたときから、何かが変わった。
小夜。
そう口にする度、胸のどこかがほっと温かくなる気がした。
小夜。
呼ばれて嬉しそうに微笑むお前を見ていると、なんだかこそばゆいような不思議な気分になった。
元王女であるお前をこんなふうに呼び捨てにできるのは、きっと俺くらいのものだろう。
いいや、俺だけであってほしい。
なんて、柄でもないこと思ってみたり。
「――小夜」
名前を呼ぶと、小さな背中がくるっとこちらを振り返った。
顔を綻ばせた小夜が「はい?」と首をかしげる。
「そのまま行くと溝があるの、気付いてるよな?」
「え?うわわっ」
小夜の数歩手前には道に沿って細い水路が伸びていた。
小夜が慌てたようにそこから離れる。
「ぜ、全然気付きませんでした。いつの間に出現したのでしょう…」
真剣な顔で考え込む小夜に、朱里は思わず苦笑してその頭を軽く小突いた。
「ばぁーか。お前が空ばっか見てるからだろ」
頭を押さえつつ「うぅ」と呻く小夜の様子がおかしくて吹き出してしまった後で、朱里は何気なく空を見上げた。
「そんなじぃっと見上げて楽しいもんでもあんのか?」
見上げた空はいつもどおり快晴で、ゆったりと幾筋かの雲が流れていく以外は別段珍しいものもない。
ただただ水色の世界が広がっているばかりだ。
「――朱里さんっ」
ぼんやり何も考えず空に見入っていると、急に袖をくいと引っ張られた。
見ると小夜がどこか遠方を指差しながら、朱里の袖を引っ張っていた。
「何だよ?どうした」
「あっちのほう!水色と茜色が混じって空が紫色になってますよっ」
小夜に言われるまま顔を向けると、遠く山際の空が水色から紫、紫から茜色へと濃淡を描きながら山の向こうへ沈んでいるのが見えた。
「ああ、あっちのほうはもう日が沈みかけてるみたいだな」
そろそろ宿屋を探さないと、こっちもすぐに夜が来そうだ。
そんなことを考えていると、すぐ隣で小夜の呟く声が聞こえた。
「…綺麗ですね」
朱里に返事を求めて出した言葉ではないのはすぐに分かった。
思わずこぼれ出てしまったのだろう。
小夜は朱里の袖を握ったまま、しばらくそうやってじっと遠く沈んでいく夕空を眺めていた。
二人の影が地面に色濃く落ち始めた頃、ようやく小夜の顔が朱里に向き直った。
小夜はなぜか照れたように笑って、朱里の袖から手を離す。
そのまま空を仰ぎながら一人軽い足取りで前に駆け出す小夜の後ろ姿は、うっすらと茜色に染まっていた。
前方で立ち止まって、じっと空を見上げる小夜の足元から伸びた影の先は、朱里の立つ場所にわずかに届かない。
なんだか急に、小夜が遠いところにいる気がした。
「小夜」
気付けば無意識に名前を呼んでいた。
小夜が振り返る。
逆光で顔は陰になっていてよく見えない。
小夜は黙ってこちらの言葉を待っているようだった。
しかし特に何か伝えたいことがあるわけではない。
ただ急に小夜を遠く感じて、名前を呼んでしまっただけだ。
だから朱里も黙って、遠くに佇む小夜の姿を見つめていた。