私の名前 君の名前
side1:小夜
あのとき初めてあなたに名前を呼ばれた。
「小夜が一番大切なんだ」
知らなかった。
自分の名前を呼ばれることが、こんなに嬉しいことだったなんて。
――小夜。
あなたにそう呼ばれただけで、私の心はいっぱいになる。
何度だって呼んでほしい。そう思ってしまう。
私がどんなに名前を呼ばれるのを待っていたか。
あなたに名前を呼ばれてどれだけ私が喜んだか、きっとあなたは知らないんだろうけれど。
ほんとはずっと待っていた。
「おい、お前――」
呼ばれて小夜は振り返った。先には仏頂面をした青年の姿。
「はい、どうされましたか?」
「どうされましたか、じゃねえよ。さっきからお前寄り道ばっかじゃねえか。いったん宿とるって言ったの聞いてなかったのか」
呆れたように言い捨てて背中を向ける朱里に、慌てて小夜は駆け寄る。
「すっ、すみません!つい面白いものがたくさんあって、意識がついついそちらのほうへ…」
「ついが多すぎだ、あほう」
「すみません…」
申し訳なくてそっと朱里の顔をうかがい見る。
そこには不思議なことに怒っているわけではなく、若干笑っているようにも見える横顔があった。
「ま、好奇心旺盛なのはいいことだけどな」
小夜の視線には気付いていないのか、笑みを浮かべたままの朱里に、思わず小夜は頬を緩めてしまう。
「ただお前の場合は…」
小夜に視線を移した朱里がぎょっとしたように身を引いた。
「な、なに笑ってんだお前」
「えと、朱里さんの笑顔が伝染してしまって」
かっと朱里の頬が上気していく。
朱里は自分の顔を隠すようにそっぽを向いて、
「笑ってんのはお前だけだろ!俺は笑ってない!」
「えっ、でも」
小夜の言葉に聞く耳も持たず、足早に先を進んでいく。
小夜は立ち止まると、うつむいて首をかしげた。
そのときだった。
「――おい!」
前方から声がした。
「早く来いよ。とろとろしてたら日が暮れるぞ」
少し離れた場所に立つのは、不機嫌そうな顔で手を差し出す朱里の姿。
こんなとき小夜は思ってしまう。
名前を呼んでくれればいいのに、と。
おい、の代わりに小夜と呼んでくれるだけで、私はもっと幸せになれるのに。
思えば出会ってから今まで、朱里に名前で呼ばれた記憶はなかった。
小夜のことを呼ぶとき朱里はいつも、おいとかお前とか、そういう言葉で呼ぶ。
初めは別にそれで気になることもなかった。
だけど、今は違う。
朱里がお前と呼ぶ度、心のどこかに小さな寂しさが生まれた。
それは少しずつ少しずつ降り積もっていって、いつしか心に小さな砂の山を築いた。
寂しい。
名前を呼んでほしい。
どうして呼んでくれないの?
そんなこと絶対口には出せない。
出してしまって嫌われるのが怖い。
いつの間にか砂の山は、体の半分をすっぽり埋めてしまうほど大きくなった。
とにかく寂しくて、どうしようもないくらい切なくて。
それでも砂はまださらさらと落ちては積もる。
この砂が体の全てを埋め尽くす頃には、自分はどうなっているのだろう。
たぶん、壊れてしまうのだと思った。
それでもやっぱり寂しいなんて言えない。
どうせならこのまま静かに壊れてしまえばいい。そう思った。
だから。
それほどまでに求めていたことだから、あの瞬間あなたの口から私の名前を聞いたときは、嬉しくて涙が止まらなかった。
身動きがとれないほど自分を捕えていた砂が少しずつ引いていくのが分かった。
「小夜」
あなたが呼ぶと、この名前は特別なものになる。
小夜と呼ばれる度、まだその感覚に慣れなくて涙がこぼれそうになるけど、きっとあなたは気付いていない。
だからそんなふうに笑って気軽に私の名前を呼べるのだ。
あなたが名前を呼ぶ度、今では幸せな砂が頭に降りかかるようになった。
それは少しずつ足元に積もっていき、今では膝の高さになった。
もし、この幸せな砂が全身を埋め尽くしたら、私はどうなるのだろう。
たぶん、それは……。