オレに傘を差しかけてくれる少女についていくと、一軒の小さな宿屋に到着した。

ここに少女は宿泊しているのだろうか。

この街で見かけたことがないところを見ると、おそらく旅行者なのだろう。


ふと、この少女は一人で宿に泊まっているのだろうか、誰か連れがいるのではないか、という疑問が頭に浮かんだ。

少女は子どもとまではいかないものの、まだ若い。
若い女性が一人で旅をするほど、この世界の治安は整っていない。

胸にわずかなしこりを残したまま、オレは少女について二階へと続く階段を昇る。

途中すれ違った宿泊客がオレを見て嫌そうに眉をひそめたが、前を行く少女は気づいていないようだった。

第一、オレもああいう視線にはもう慣れっこだ。

彼女と別れてから、すっかり身づくろいに興味を失ったオレは、ずいぶんと酷い見た目をしているのだろう。

通りを歩けば迷惑そうな視線を存分に受け、下手に店にでも入れば追い返されることがほとんどだった。

だからこそ、そんな今のオレに向けてくれた少女の笑顔が奇跡のように思えたことも、決して大げさではない。



少女がとっているのだろう部屋の前まで来ると、突然その扉が内から開かれた。

中から現れたのは、一人の銀髪の青年だった。


「ああ、やっと帰ってきたのか」

青年は安堵したような笑みを目元に浮かべ、それから少女の背後にいるオレの姿に気付いたのか目をわずかに丸くした。

「あれ、そいつは?」

「外で雨に濡れていらしたのでここまでお連れしたんです」

「ふうん。ほんと見事にずぶ濡れだな」

少女が無邪気な笑顔をオレと青年の両方に向ける。

青年は物珍しそうにオレの顔をじっと見ていた。

少女同様不思議なことに、その目にはやはり嫌悪感の類は微塵もない。
それどころか好奇の色さえ浮かんでいる。

「もしかして朱里さん、今まで私を待っていらしたんですか?何かご用でしょうか?」

少女の問いに、朱里と呼ばれた青年はなぜかオレのほうをちらと見て、

「あー…いや、後でいいや。それよりそいつ早くしねえと風邪ひくぞ」

そのままどこか急ぎ足で、階下に続く階段を下りていった。

俺は首を傾げながら、少女に促されて部屋の中へ入っていった。



南に面した大きな両開き窓の向こう側は、相変わらずの雨模様のようだ。

色彩を失った鈍色の空から降る雨粒が、窓ガラスを打つ音が響いている。

どうしてこんな物悲しくなるような景色を、彼女はわざわざ好んだのだろう。

ぼんやり窓のほうを眺めていると、突然目の前が真っ白いものに覆われた。

慌ててそれを払おうと首を振ると、白い隙間から少女の顔が垣間見えた。

「しっかり拭いておかないと後で風邪ひいちゃいますよ。ちょっとの間ですから、辛抱しててくださいね」

どうやらいつの間にかタオルを用意した少女が、オレの頭を拭いてくれているらしい。

自分でできると言いたかったが、あまりにも少女が嬉しそうに拭いてくれているものだから、何も言えなくなってしまった。


不思議な少女だ。

こんなオレをここまで連れてきてくれて、あまつさえこんなことまでしてくれる。

オレと彼女は初対面の赤の他人でしかないはずなのに。


「さっ、これで綺麗になりましたよ」

言って少女はそっとオレの頭を撫でて微笑んだ。

その笑顔が一瞬彼女と重なって、オレは軽く頭を振る。

どうかしてる。
彼女とこの少女を重ねてしまうなんて。

年齢も違えば姿かたちもまったく似つかない二人なのに、オレに向けられる温かな微笑みだけは一緒だと感じてしまうなんて。

ふと、先ほどの青年のことが脳裏に浮かんだ。

きっと彼がこの少女と共に旅をしている相手なのだろう。

若干少女より幼いようにも見えたが、それでもお似合いだと思える雰囲気を持っていた。

どう考えてもオレの入る隙なんてない。

少女をいくら彼女と重ねても、オレの居場所はもうどこにもないのだ。

オレがこれから独りで生きていかなければならないことに変わりはない。

ここに長くいる分辛いのはオレ自身だ。


「あっ、そうです!ちょっと待っててくださいね」

何かを思い出したのか、少女はオレに声をかけると慌てたように部屋を出ていった。

うっすらと開かれたままの扉の向こうに、遠ざかっていく軽やかな足音を響かせて。


――ここを出ていくなら今しかない。


俺は一歩扉のほうへ歩み出た。

外はまだどしゃ降りだろうが、それでもかまわない。

このままここに留まれば、きっとオレは出ていく機会を永遠に逃してしまうだろう。

それに比べれば、雨の中を一人歩いているほうがずっといい。


そこでふと、俺は首を傾げた。

そういえば、さっきまで聞こえていた雨の音がいつの間にか聞こえなくなっている。

窓を振り返ったオレの視界に広がったのは、先ほどまでの灰色な世界ではなかった。

一体いつの間に姿を現したのか、鮮やかな水色の空が窓ガラスの向こう側を彩っていた。


空はなんて気まぐれな奴なんだろう。


窓の側まで近づき、オレは思わず苦笑いを浮かべた。

淡い水色の空を背景にして、地上から生えた七色の橋が天に向かって円を描きながら伸びているのが見える。

本当に空は気まぐれだ。

こんなタイミングでオレに肝心なことを思い出させてくれるなんて。


なぜ彼女がわざわざ雨の日を好んで出かけていたのか。


彼女はいつも赤い傘を差したまま、雨上がりの空を見上げていた。

傘の奥からのぞく彼女の横顔は、いつもとても嬉しそうで。

そんなとき空には必ず、今みたいな七色の虹がかかっていたっけ。


彼女はもしかしたら今このときにも、オレと同じように虹色の空を見上げているのかもしれない。

そう考えたら、急に外に飛び出したくなった。

彼女の好きなこの瞬間の空を、同じ空の下で見上げたい。


オレは心の中で小夜という名の可憐な少女に礼を言うと、開いたままの扉の隙間から外へ駆け出していった。





「――お待たせしました!……あれ?」

小さな小皿を両手に持って部屋に入ってきた小夜は、そこが無人なのを見て首を傾げた。

「どちらに行かれてしまったのでしょう」

そこにちょうど朱里も入ってくる。

「あのさ、これ俺の昼飯の残りなんだけど」

しかし彼も小夜と同じように無人の部屋を前にして首を傾げた。

「あれ?あいつどこ行ったんだ?」

二人は互いに顔を見合わせて、互いの手の中のものに視線を移した。

小夜の両手にはホットミルクの入った小皿。

そして朱里の手にあるのは、一匹の小さな焼き魚。

「あれ?朱里さんお昼ご飯って、もっと別のお肉料理を召し上がってませんでしたっけ?」

「う、うっせえ!よく見たら皿の端っこに魚も乗ってたんだよ!」

妙に動揺しながら叫ぶ朱里だが、再び部屋の中に視線を戻してあからさまに肩をがっくりと落とした。

「…でも、そっか。もうどっか行っちまったのか…」

手持ち無沙汰に焼き魚の尻尾を持ってぷらぷらと揺らす。

遊びたかったのに、という小さな呟きを耳にして、小夜はかすかに笑みを漏らした。

「寂しいですけど、でももう大丈夫ですよ」

ほら、と小夜が指し示すほうに朱里も首を巡らせた。

「――雨もすっかり上がってますから」

窓の外はいつの間にか雲も消えて、爽やかな青空が広がっている。


「きっとあの子もまた、お外を歩きたくなったんですよ」


澄み渡った空の下を行く小さな黒猫の姿を想像して、小夜はにっこり微笑んだ。


ずっと遠方には、七色に光る橋がかすかにのぞいていた。



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