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七色の雨
長い間、時間を共有してきた女性とついに決別した。
『…あたし、結婚するの。ごめんね…ばいばい』
そう言って手を振る彼女の姿がひどく儚げで、思わずオレはその背中を追いかけていた。
だが困ったように笑う彼女の横顔が、もう本当に側にはいられないのだと自覚させた。
静かに降る雨の中、オレはあてもなくただ機械的に足を進めていた。
雨水をしっとり吸った体が冷たい。
先ほどからずっと降り続く雨が静まる気配は一向になかったが、それでも空の下を歩いていたい。そう思った。
見上げると、自分を包んでくれるようだったいつもの大きな青空が、今は自分を押し潰そうとしているようにすら感じられた。
空までこんなに薄情な奴だったとは。
オレは小さなくしゃみをして空から顔を背けた。
雨は嫌いだ。
世界中の汚れを洗い流した後の陰気くさい臭いが、ひどく鼻につく。
雨の日は決まって、自分のいる世界に嫌悪してしまう。
なんだ、この鬱陶しい臭いは。
こんなにも世界は汚れているのか。
そして自分もその汚れの一部を担っているのだと気付いて、愕然としてしまう。
今この瞬間にも、オレの体からにじみ出た穢れが、雨の臭いに溶け込んでいるに違いない。
そういえば彼女は、オレとは正反対だった。
雨の日は決まって機嫌が良かった。
お気に入りの赤い傘を揺らしながら、よく雨の街をぶらぶら歩いていたものだ。
オレはそれを不思議に思いながらも、彼女の隣で歩調を合わせることに懸命になっていた。
…うまくやっていた、と思っていたのだが。
どうやらそれは、完全にオレの自惚れだったようだ。
雨の音がさっきよりさらに鮮明に、鼓膜を震わせる。
二度目のくしゃみをして、さてどこへ行こうかと顔を巡らせたときだった。
視界の端に鮮やかな赤色が飛び込んできた。
オレの目は無意識にその先へ吸い寄せられる。
…赤い傘。
心臓がどきんと波打った。
その傘の向こうに透けて見えるかすかなシルエットは、女性特有の柔らかなものだ。
さらにオレの胸の奥が疼きを覚える。
かすんだ雨の街の中、大輪の花を思わせるように咲いた赤い傘は、まるでそれ自体が生きているかのように機嫌よく左右に揺れていた。
もちろん、揺らしているのはその向こうに隠れた女性。
彼女と同じ傘を、彼女と同じように揺らしながら持つ女性。
本当は今すぐにでも駆け出して、傘の向こう側を見たかった。
花弁の先に立つ女性の姿を確認したかった。
だがそれと同時に、恐怖もあった。
もし駆け寄った先に彼女がいて、また困ったような横顔を向けられたら。
オレにはそれが何よりも恐ろしい。
振り返った先に全く別の女性がいることより、よほど。
自分に注がれている視線に気付いたのだろうか。
傘が今まで以上に横に弾んで、その内部をこちらに解き明かした。
振り返ったのは、一瞬息を呑んでしまうほど愛くるしい容姿を持った少女だった。
花の奥に実はそれ以上の花が眠っていた。
そう思わせるほど少女は可憐だった。
少女は若干距離が離れているというのに、オレの姿を黒目がちの大きな瞳に捉えると、ごく自然な笑顔を浮かべて微笑んだ。
少女はどう見ても、オレの求める彼女ではなかった。
だが不思議なことに、オレの心臓はまだ波打ったまま。
いや、ひどく動揺までしていた。
少女は微笑んだまま、傘を揺らしてオレの元に駆けてきた。
オレは呆気にとられて、ただ少女を見返す。
「あのっ…寒くはないですか?」
全身ずぶ濡れのオレを心配してくれたのか、少女が自分の傘を俺の頭上に差し出した。
少女自身が濡れることなど気にもかけないのか、恐らく目をまん丸くしているだろう俺に、嬉しそうな笑顔をこぼす。
「濡れたままだと、風邪を引いてしまいますよ」
そう言って、そっとオレの頬に触れた手の平の感触。
雨で冷えて冷たいはずなのに、なぜだかすごく温かく感じられた。
少女は訊いてもいないのに自分の名前を告げると、はにかむような笑顔を見せた。
――小夜。
それが今オレの前で無邪気に笑う少女の名だった。
どちらかというと、名前の意味する朧月が浮かんだ静かな夜というより、暖かな陽射しが降り注ぐ昼のイメージがぴったりな雰囲気をまとっている。
それでもオレは心から、いい名だと感じていた。