「朱里さん、今夜はずっとお側にいますからね。辛くなったらすぐ言ってくださいね」
「…ああ、悪い…」
眠気に誘われるように朱里が目を閉じると、小夜は部屋の灯りを消した。
窓の外からほのかに漏れる朧月の青い光以外、光源はない。
月明かりが届くベッドの周囲を除いては、部屋の中は完全な闇に覆われた。
ベッドの上では朱里がすっかり寝息を立てて寝入っていた。
小夜はそれを確認すると、朱里に背を向ける。
「今の間にお風呂に入ってきましょう」
誰にともなく一人ごちてから、そのまま小夜は退室していった。
さっきからずっと足を止めずに歩いているのに、目的地が全然見えてこない。
いいや、そもそも目的地なんてなかった気がする。
探しているのは場所ではなく、自分を助けてくれる人だった。
独りぼっちの自分に、手を差し伸べて微笑んでくれる人。
そんな夢みたいな存在を探していた。
だけどどんなに通りを歩き続けても、大勢の人は自分とすれ違っていくだけで目を向けようともしてくれない。
ほしくてほしくてたまらない人は、どこにもいない。
右を向いても左を向いても、後ろを振り返ってもいない。
お願いだ。
誰かほんの少しでいいから笑いかけてほしい。
手をつないで一緒に歩いてほしいんだ。
ねえ、誰か――
「…そば、に…」
自分の声に意識を引き戻されて、朱里はわずかにまぶたを開いた。
おぼつかない視界には、闇だけが滞っている。
徐々に目が慣れてくると、かすかに月明かりで明るいのが分かったが、それでも朱里の視界は曇ったまま晴れそうになかった。
(…そういえば、側にいてくれるって、言ってたっけ…)
重い頭をなんとか動かして横を向く。
そこには先ほど小夜が腰掛けていた椅子だけがあった。
小夜の姿はどこにもない。
「…小夜?」
ずっといるって言ったのに、どこに行ったんだよ。
「…小夜」
もう一度名を呼ぶが返事はない。
暗い部屋にたった一人きりという状況下で、朱里は急に理由のない不安に襲われた。
もしかして自分はまた独りに戻ったのだろうか。
いや、そもそも初めからずっとここには自分しかいなかったのかもしれない。
"小夜"なんて存在は、孤独から逃避するために無理やり自分が作り出した幻だったんじゃないか?
頭の芯にまとわりつく熱のせいで、思考が混乱してしまう。
孤独という抑止できない恐怖心に朱里はとうとう声を上げた。
「…小夜…。小夜っ…」
かすれてしまってあまり響かない声で、それでも懸命に朱里は求める相手の名を呼ぶ。
どうか、俺が独りきりじゃないってことを証明してくれ。
もう俺を独りにさせないでくれ。
「…っ小夜…」
その名を呼び続けて何度目のときだっただろうか。
扉が勢いよく開く音がして、暗闇の向こうから誰かが駆け寄ってくる足音が聞こえた。
「ごっ、ごめんなさい朱里さん!どうされましたっ!?」
月明かりの下、声と共に現れたのは小夜の姿だった。
小夜は慌てて朱里の側に膝を折ると、どこか異変はないかと顔を見つめてきた。
自分のすぐ側に戻ってきた小夜に、朱里はほっと息をついた。
「…よかった。いたんだな…」
「はい、大丈夫ですよ。今夜はもう絶対ここを離れたりしませんから。朱里さんのお側にいます」
柔らかい笑みを浮かべて、小夜がそっと朱里の額に手を当てた。
「ゆっくりお休みになってください」
「…うん」
冷たい手の平の感触が心地よくて、朱里はゆっくりとまぶたを下ろしていった。
視界は再び完全な闇に包まれたが、側に感じる小夜の気配が朱里を安心させてくれる。
意識を失う直前、温かくて柔らかい誰かの手が自分の手を握ってくれた気がした。
きっともう悪夢を見ることはないだろう。
閉じたまぶたを通して差し込む朝日の光を感じ、朱里は目を開いた。
何度か瞬きを繰り返し、ゆっくりと身を起こす。
昨日まで鉛のようだった体が、今朝は嘘みたいに軽い。
どうやら体調は完全に回復したようだ。
これもあいつが看病してくれたおかげかな。
一日中横になっていたせいですっかり鈍ってしまった体を蘇らせるように大きく伸びをすると、ベッドに頭だけ乗せて床に座り込む小さな姿が目に入った。
「ずっといてくれたのか…」
白いシーツにあどけない寝顔の頬を押しつけて眠る小夜に、朱里はそっと手を伸ばした。
頬にかかった髪の毛をよけてやると、小夜が小さく「ううん…」と呻く。
「おい小夜、そんなとこで寝てると風邪引くぞ。俺はもう平気だからちゃんとベッドで…」
朱里の言葉は、半ば寝ぼけたように立ち上がった小夜の姿のせいで続きを失った。
絶句して口をぽかんと開けたまま固まる朱里の前には、白いタオル一枚きりを体に巻いた小夜がいた。
目をごしごしこする小夜の両肩は無防備にも空気にさらされ、両脚もかなりの上部まで朱里の目前にさらされている。
「…おはようございます、です…」
いまだ寝ぼけ眼の小夜は律儀にも頭を下げて挨拶をし、それから固まったまま動かない朱里に首をかしげた。
「…朱里さん?起きてますか?」
軽く朱里の前で手を振る小夜。
その細い二の腕のどこに肉があるのか、手を振る度に柔らかそうな二の腕がかすかに揺れている。
完璧に風邪は治ったはずなのに、再び顔が熱をもってくるのが分かった。
…俺、また倒れちまうかもしれない。
視界いっぱいに自分を覗き込んでくる小夜の過激な姿に、朱里は意識が薄らぐ予感を感じているのだった。