腹がいっぱいになったせいだろうか、朱里は再び睡魔に襲われていた。
まぶたがやたらと重い。
小夜が側にいることもあり、何とか目を開いていようとするのだが、油断するとすぐにまぶたが落ちてくる。
「朱里さん、少しお眠りになったらよろしいですよ。私はその間にお皿の片づけを済ませておきますので」
微笑む小夜の言葉に甘えて、朱里はそのまま眠気に抗うことなく目を閉じたのだった。
また幼い朱里は一人で通りを歩いていた。
あいかわらず体の節々が痛むけれど、もう慣れっこだ。
それよりも今はお腹が空いて死にそうだった。
もう歩けない。
もうこれ以上進めない。
頭の中の自分はそう弱音を吐いているのに、体は決して歩みを止めない。
今ここで座り込んでしまっても、誰も手を差し伸べてくれないことを知っているから。
迷惑そうな目で見下ろされるだけだと分かっているから、ひたすらどこかへ向かって足を動かすしかなかった。
だけどどこへ向かっているのか、どこへ向かえばいいのかは自分にも分からない。
一体どこへ行けば、俺を助けてくれるんだろう…。
胸いっぱいに広がる不安から逃れるよう、ただただ前へ進む。
それしか、術はなかった。
さっきから規則的な寝息が聞こえている。
どうやら朱里は完全に熟睡しているようだ。
あどけない朱里の寝顔から雪のちらつく窓のほうへ視線を移して、小夜はふうと息をついた。
皿の片付けは完全に終わったが、どうやら予想以上に時間がかかってしまったらしい。
窓の向こうにのぞむ空は、わずかに日が傾き始めている。
「そろそろ買い出しに行かないと、晩ご飯に間に合わないですね」
昼食は陳さんが駆けつけてくれたおかげで何とかなったが、夕食はそうもいかない。
この宿には各室にキッチンがついている反面、食堂という設備が存在しない。
つまり、今日の夕食は小夜が作る以外に方法がないわけだ。
小夜はちらと朱里を一瞥すると、そのまま部屋を出ていった。
何かが砕けるような音に覚醒を強いられ、朱里は重たいまぶたをこじ開けた。
視界の隅に映る窓ガラスには、赤く熟した茜空がのぞいている。
相当長い間、自分は意識を失っていたようだ。
(…さっきのは何の音だったんだ…?)
霞がかる頭を巡らせて、音の正体を探る。
すると再び今度は、何かが派手に割れる音が鼓膜を震わせた。
次いで誰かの小さな悲鳴。
迷うことなく朱里はキッチンのほうへ視線を向けた。
もう音の正体ははっきりしていた。
そして、その原因である人物の正体も。
案の定キッチンに立つ背中は、朱里が見知った人物のそれだった。
「…何、やってんだよ…」
呆れを含ませたかすれ声に人物が小さな肩を揺らし、恐る恐るといったふうにこちらを振り返った。
明らかになったその顔、小夜の顔には何とも言えないばつの悪さが浮かんでいる。
「す、すみません…!夕食を作っている最中なのですが、お起こししてしまいました…」
申し訳なさそうに頭を下げると、小夜はそのまましゃがみ込み、割れた皿の破片に手を伸ばす。
「あっ、おい…」
朱里が止める間もなく小夜は素手で破片を拾い集めようとし、指先を切ってしまったらしかった。
かすかに息を呑む音が聞こえて、小夜がぱっと手を引っ込める。
うずくまったまま指を押さえる小夜の姿に、思わず朱里は重たい上体を起こした。
「そんなの俺が後で片付けとくから…」
ベッドから何とか下りようとしたところで、急に立ち上がった小夜が首を左右に振って朱里の動きを制止させた。
「いいえ、朱里さんはそのまま寝ていらしてください。夕食の時間になったらお呼びしますからっ」
言うが早いか、朱里が口を挟む隙すら与えず、小夜はまた忙しなく作業を再開する。
腰の後ろで結んだ白いエプロンのリボンが、小夜の動きに合わせてゆらゆらと泳いだ。
仕方なく朱里は再び枕に後頭部を埋めた。
少し体を起こしただけだというのに、頭の芯がズキズキ痛みを伴い始めている。
今の状態では小夜の言うとおり、寝ているしかなさそうだ。
あまりのふがいなさに朱里が大きく息をついたときだった。
またキッチンのほうで派手な破裂音がした。
思わずそちらを見れば、取り繕うような笑顔を貼り付けて、首をぷるぷる振る小夜の姿。
その足元には、新たな皿の残骸が虚しく転がっている。
「…お前な…」
「違うんですっ!ほんとのほんとに何でもないですからっ!」
顔を真っ赤に染めて必死に叫ぶ小夜。
朱里はため息を漏らしつつも、
「…分かったよ。大人しく寝とく」
小夜に背を向ける形で寝返りを打って目を閉じたのだった。
――とは言っても、なかなか安心して熟睡できる環境のわけはない。
背後では頻繁に破壊音やら破裂音やらが炸裂し、さらには悲鳴も続いているわけで、この状況の中ぐっすり眠れというほうが無理というものだ。
朱里は心拍数が急上昇するのを自覚していた。
(…キッチンのほう、一体どうなっちまってんだろう…)
怖くて後ろを振り向くこともできない。
しかも時折小夜が、
「――あっ!……でもこれくらいなら、きっと大丈夫ですよね…?」
などと一人呟く声を耳にしたときなど、本気で窓を蹴破って外に脱出したい思いだった。
小夜が夕食を作るなど、朱里の記憶では今回が初の試みだ。
これから数刻後、天国が待っているのか、はたまた地獄が待っているのか、今の朱里にはまだ分からない。
どうか後者ではありませんように、と願いつつベッドに深く潜り込むしか術はなかった。
人間とは不思議なもので、これ以上ないというほど最悪な状況下においても、"慣れ"という能力さえ発動すれば全てが普通、当たり前のことになる。
小夜に声をかけられて初めて、朱里は自分がすっかり熟睡していたことに気がついた。
まさかあの騒音の中で優雅に安眠を貪っていられたとは、我ながら天晴れだ。
人間の不思議に目を瞬かせていると、突然すぐ眼前に小夜の顔が迫ってきた。
「夕食が出来上がったんですが、もう少しお休みになられますか?」
小夜の言葉を証明するように、どこかからかすかに良い香りが漂ってくる。
「…いや、食うよ」
小夜の手を借りて上体をベッドの背に預けると、すっかり夜の闇に沈んだ町並みが窓の向こうに見えた。
家々からは橙色の柔らかな灯りが漏れている。
朝から降り続く雪は、いまだ止む気配もない。
「雪、積もるといいですね」
朱里の視線の先を追ったのか、小夜も同じように外を眺めて微笑んでいた。
ベッド脇の椅子に腰掛けた小夜の膝には、今ひとつの小さな盆が乗っていた。
その上に置かれた深皿の中身を見て、朱里は「それ…」と呟いていた。
「それ、お前が作った夕飯か…?」
「はい。お恥ずかしながら…一品しか出来ませんでしたが」
照れたように視線を落とす小夜から、朱里はそっと盆を受け取った。
まじまじと深皿の中を見つめると、小夜がますますうつむくのが分かった。
皿の中に入っていたのは、刻んだネギが乗せられた真っ白いおかゆだった。
湯気を顔に受けると、ほんのり懐かしい匂いがする。
「あっ、あ、あの…頑張って作ったのは作ったんですが、やっぱり陳さんみたいには上手くいかなくて…」
側に置かれたスプーンを手に取ると、朱里はおかゆをひとすくい無言で口に運ぶ。
途端に、口中に温かい風味が広がった。
「…あ、うまい…」
「えっ、本当ですか?いいんですよ、駄目だったら駄目と言ってくださったほうが」
「いや、本気でうまいよ。確かに陳さんのもうまかったけど、今の俺にはこっちのほうがうまい…」
「よ、よかったですっ。何度も作りなおした甲斐がありました…!ほんとによかったですっ…」
そう言って吐息を漏らすと、今までの不安そうな表情が一変して、びっくりするほど大輪の笑顔に変わる。
口元で両手を合わせて小夜は顔を綻ばせた。
その指はよく見れば絆創膏だらけだ。
「…よく頑張ったな」
そっと頭を撫でてやると、小夜がくすぐったそうな顔で笑ってうなずいた。
「…はいっ」