風邪にご注意





……おかしい。

なんだかやたらと体が重い気がする。


ベッドに上半身だけ起こした状態で、朱里は軽く腕を持ち上げてみた。

たったこれだけの動作が、今はひどく気だるいものに感じられる。


まだ朝も早いというのに、窓の外ではさっそく雪がちらつき始めているようだ。

灰色の雲に覆われた空を、木綿に似た白いものがゆっくり横切っていくのが見えた。

起き上がる気分にもなれず、ぼんやり窓の向こうの景色を見るともなしに眺めていると、ふいに部屋の扉が控えめにノックされた。

「朱里さん…?起きられてますか?」

扉の向こうから聞こえてくるのは馴染みの声だ。

「ああ、なんとかな」

恐らく、いつまで経っても朱里が朝食の場に現れないのを心配して、迎えにきたに違いない。

若干不安げな色を帯びた小夜の声音を耳にして、朱里がだるい体に鞭打ち、無理やりベッドから這い出ようとしたときだった。

急に目の前が揺れたと思った途端、朱里の体はバランスを失って床に倒れ込んでいた。

「…いってぇ」

一体何が起きたんだ?

床にうつ伏せになったまま、朱里は呆然とする。

物音を聞きつけて小夜が部屋に飛び込んできたときも、朱里は床の上に突っ伏したまま何が起きたのか理解すらできていない状態だった。




「――風邪みたいですね」

冷たい手の平の感触が額から離れて、朱里はうっすらとまぶたを開いた。

「風邪…?俺が…?」

まさか、と笑おうにも力が出ない。
情けないことに床に倒れた後朱里は、小夜の助けがなければ自力で起き上がることさえできなかった。
今は大人しくベッドに入っている。

この様子では小夜の言う“風邪”という診断も間違いなさそうだ。


おぼろ気な意識は先ほどから、夢と現を行き来していてどうにも安定しない。

今も小夜の手が額から離れる直前まで、夢の世界を漂っていたようだった。

「今日はこのまま横になっていらしたほうがいいですね。お腹は空きませんか?」

ぼんやり天井の木目を眺めていると、目前に小夜の顔が現れた。

「腹…?そういや空いたような空かないような…」

なんとも煮え切らない返事だったが、小夜は困った風もなくにっこり微笑んでみせた。

「では、私にお任せください――」


*****




体調を崩すと決まって見る夢がある。

ずっと昔の、自分が独りきりだった頃の夢だ――。



幼い自分は人通りの多い道を歩いている。

先ほどから体じゅうがずきずきと痛みを訴えていた。
口元をこすると、手の甲に乾いた血の塊がついた。

きっと自分はいつものように酷い顔をしているんだろう。

けれど、こんなに人の多い通りを歩いていても、誰も自分を振り返ってはくれない。

こんなにお腹が空いてるのに、誰も何も差し出してくれないのも、いつものことだった。


まるで自分は幽霊みたいだ。

ひょっとして、本当の本当に自分の姿は誰にも見えてないんじゃないのかな。
思わずそう錯覚してしまう。

だから皆俺を置いていっちゃうんだ。

どんなに人がいたってこの世界に俺は独りきりで、ずっとずっとこれからも、独りぼっちのまま生きてかなくちゃいけない。

そうしてそのまま誰にも気付かれずに、どこか薄暗いところで死んでいくんだ。

その後もきっと皆俺がいなくなったことにさえ気付かない。


だって、俺は最初からずっと幽霊だから――。


*****




「朱里さん」

呼ばれてまぶたを開くと、盆を両手で抱えた小夜が傍らに立っていた。

枕に頭を沈めたまま、朱里はぼんやり小夜の格好を眺める。

「…お前、それ…」

かすれ声で呟く先に立つのは、かつて見たことのない衣装に身を包んだ小夜だった。

いや、見たことがないというと嘘になるかもしれない。
朱里は以前一度だけ、小夜がそれを手にした場面を目の当たりにしている。

あれは確か、久しぶりに師匠とジライに再会したときのことだった。
小夜がいつの間にかジライから受け取っていたのがその衣装だったのだ。

ベッドの中で目を瞬く朱里に、盆を抱えた小夜は軽くお辞儀をしてみせた。

「今日は一日朱里さんの看病をさせてもらおうと思いまして、それでしたらこの衣装がぴったりかなと」

ふわりとスカートの裾からのぞく純白のフリルが揺れる。

朱里は思わず小夜の姿を凝視した。

淡いピンク色のエプロンドレスに、ふんだんにフリルをあしらった白いエプロン。

膝より少し短いスカートからは、白く真っ直ぐな脚が伸びている。

その衣装に身を包んだ今の小夜は、どこからどう見ても完璧なメイドさんで、朱里は自分が不思議な世界に迷い込んだかのような錯覚に襲われた。


メイドさん、もとい小夜は朱里の反応がないことを気にしたのか、そっと手を伸ばしてきた。

ほのかに冷たい手の平が朱里の額に触れる。

「熱もまだあるみたいですね…。今からお食事、できそうですか?」

心配そうに上目遣いで見つめてくる小夜に、朱里は壊れた首振り人形のように何度も頷く。

小夜はかすかに笑顔を漏らして、

「それじゃあちょっとお待ち下さいね。今からこちらに持って参ります」

スカートの裾をひるがえして去っていく小夜の後ろ姿にかける言葉もないまま、朱里はかすむ視界にエプロンのリボンが揺れるのをただ映しているばかりだった。




部屋に備え付けの簡易キッチンから出てきた小夜の手には、さっきと同じように盆が提げられていた。

だが今回は先ほどとは微妙に違う。

盆を床と平行に保ちながら小夜が恐る恐る歩いてくる姿に、朱里はわずかに身を起こした。

「駄目ですよ、朱里さん。横になっていらして下さいっ」

盆に集中しつつもすかさず小夜が注意を促す。

朱里は仕方なく再度ベッドに身を横たえた。

「はい。お待たせしました」

小夜が笑顔で盆をベッド側の小机に置くと、香ばしい匂いが朱里の鼻をくすぐった。

顔を横に向ければ、盆の上に何皿かの料理が乗っているのが見えた。

「すごいな…お前が作ったのか…?」

一瞥しただけでも、その料理が相当凝ったものだということは分かる。

具体的な料理名までは分からないが、どの皿も朱里の腹の虫を刺激してくることに違いはない。

(…さすが姫様なだけあって、旨いもんたくさん食べてきたからこんなすげぇもん作れんのかな…)

朱里が素直に感心していると、小夜が照れたようにはにかんで言った。

「喜んでいただけてよかったです…!――ねっ、陳さんっ」

「…は?チン?」

背後のキッチンを振り返る小夜に倣って朱里がそちらに視線を移せば、腰に巻いたエプロンで手を拭う白いコック帽をかぶった見慣れぬ細目の男の姿があった。

男は小夜に軽く頭を下げると、そのまま部屋を後にした。


唖然とする朱里に、小夜が誇らしげな笑顔を降り注ぐ。

「陳さんは世界でも三本の指に入るほど凄腕の料理人さんなんですよ。朱里さんの体調が悪いんですとお話したら、飛んで来て下さいましたっ。よかったですね!」

…一体俺は、何に対してツッコミをいれればいいんだろう。

メイド服をまとった小夜は無邪気な顔で朱里を見返してくる。

側には先ほどの陳と言うらしい男が(なんでも自分のために)作ってくれた料理が並んでいる。

…ここはやはり、感謝すべき場面なんだろうか…。

おぼろ気な頭で真剣に悩んだ末、朱里はなんとか笑顔を浮かべてみせた。

「あ、ありがとう…」

その言葉に小夜がさらなる笑顔の花を咲かす。

ああ、とりあえずこれで良かったんだよな…。

若干首を傾げつつも、朱里は陳さん特製の料理に手を伸ばすのだった。



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