10 years ago
―小夜6歳―
あの戦争で、母は二度と帰らぬ人となった。
母がいなくなった城内は、幼い小夜にとってはまるで未知の世界のようだった。
何をすればいいのか、また反対に何をしたらいけないのか。
母を失って初めて皮肉にも自由を手に入れた姫は、時間の過ごし方さえ分からず、戸惑う日々を繰り返していたのだった。
自分のためにあてがわれた私室は、小夜には大きすぎて落ち着かなかった。
以前の部屋のほうが寒いけど、自分にはぴったりだった。
小夜は広いふかふかのベッドの中で、膝を胸にぴったりつけて身を縮め、訳の分からない不安から必死に自分を守った。
部屋付きの侍女、という存在も小夜には初めてのもので、意味も分からず怖かった。
「姫様」と呼ぶその優しい声も慈しむような瞳も、小夜には不安を与えるだけだ。
母の死を目撃した、ということもあってか、小夜は精神的にも相当の傷を負っていた。鬱状態と言えばいいのだろうか。
廊下を歩くときは決まって床に目を泳がせ、人と視線を交わすこともしない。
そして、ほとんど声を発することもしなかった。
静かにただ黙々と過ぎていく時の流れに、身を任せているだけだったのだ。
小夜の父は国の復興作業に追われ、ほとんど娘の顔を見ることもできていなかった。
父は小夜とは異なり、目まぐるしく過ぎていく時の激流に身を乗せていたのだ。
親が不在の小夜の側には、侍女が始終付き添っていたけれど、小夜は朝も昼も晩も、ずっと心の中では独りきりだった。
このまま自分の時が終わってしまっても構わない。
そう思うことが少なからずあるほどに。
今の小夜には、何もなかったから。
大事な物も、一緒にいたい人も、何もかもすべて失ってしまったから。
母の死の一件で、自分の本体はどこかへ消えてしまい、今あるのはその抜け殻だけなのだとさえ小夜は思った。
孤独の牢獄に囚われた小夜の元に、唯一の肉親である父が会いにきたのは、それからしばらく後のことだった。
「小夜、元気か?」
元々口下手で子育てのほとんどを妻に任せきりにしていた父は、小夜にどう接していいのか分からないようだった。
小夜はぼんやりと、自分の顔を覗き込む父の姿を見上げた。
「…はい」
久しぶりにその唇から発された言葉は、わずかにかすれていた。
父は「そうか」とぎこちない笑みを浮かべて、小夜の小さな頭をそっと撫でると、そのまま背を向けて去っていった。
小夜は首をかしげて自分の頭に触れる。
なんだか温かい感触が残っているような気がして、不思議な気持ちだった。
それから父は幾度も小夜に会いにきた。
特に用があるわけではない。
毎回「元気か?」と尋ね小夜がうなずいてみせれば、その頭を撫でて去っていく。
その繰り返しだ。
責務に忙しい父が、なぜ度々自分の元を訪れてくるのか、小夜は広いベッドの中で考えてみたけれど、やはり答えは見つからなかった。
そんなある日の晩、父がまたいつものように小夜の部屋を訪れた。
扉を開いた小夜は目をぱちくりさせる。
なぜなら父が、いつもは空いているはずの手に枕を抱えていたからだ。
「今夜は寒い」
そう言うと父は、自分を見上げる小夜の頭に大きな手の平を乗せて言った。
「今日は一緒に寝ようか、小夜」
頭に伸ばされた指の隙間から見える父の顔は、少しばかり気恥ずかしそうにしていた。
父に続いてベッドに潜り込むと、小夜は父と並んで仰向けになったまま黙り込んだ。
一体これがどういう状況なのか理解できていなかったといえばそうだろう。
だがそれ以上に小夜は驚いていた。
人と一緒のベッドが、これほどまでに温かいものであるということに。
天井を見つめたまま瞬きを繰り返す小夜に、父が声をかけた。
「今日は楽しかったか?」
「…はい」
これも馴染みの台詞であるので、小夜もいつもどおりの答えを返す。
こうすると父が、わずかだが嬉しそうな目をするのを知っていたからだ。
だがその日は、後に続く言葉が違っていた。
「何が楽しかったんだ?」
突然そう問われて、小夜は返す言葉に詰まった。
“楽しかったか?”と訊かれれば“はい”と返せばいいだけだが、何が楽しかったと訊かれても上手い言葉が見つからない。
要するに小夜には特に日々楽しいことがなかったのである。
「…うっすらと感じてはいたんだ」
戸惑う小夜の横から声が聞こえた。
「お前はいつも私の質問に“はい”と答えてくれるけれど、本当にそうなのだろうかと。ただ私に心配かけまいとしてくれているだけなんじゃないかと」
図星をつかれて、小夜はさらに言葉を失った。
戦後の国の整備と妻の喪失で、以前よりもずいぶんやつれてしまった父の姿。
それを目の当たりにして、小夜は自分だけはなんとか心配の種にならないようにと意識してきた。
だが所詮は幼い子どもの考えること。
大人、それも血の繋がった父親には、すべて見抜かれていたのだ。
思わず小夜は「ごめんなさい」と呟いて、目をぎゅっと閉じた。
隣で父が自分を見つめているのが分かった。
「ごめんなさい…」
相手の顔色をうかがってすぐ謝ってしまうのが、長年母親から虐待を受けてきた小夜が唯一持つ、防御壁だった。
ごめんなさい、謝るからもう怒らないで。
いい子にするから、だからそんな怖い顔しないで。
今隣で横になる父がどんな顔をしているのかは分からない。
それでも小夜は、怖くて目を開くことができなかった。
「…小夜」
ふいに父の低い声が、暗い部屋の中響いた。
小夜は無意識に肩を揺らす。
と思いがけず、枕に預けた頭に何か温かいものが触れた。
「…心配かけて悪かったね。ありがとう、お前は本当に優しい子だ」
その言葉と同時に、頭の上にあるものもそっと小夜を慈しむように左右する。
小夜は恐る恐るまぶたを開けて、横を見上げた。
そこには、月明かりにうっすらと照らされた穏やかな父の顔があった。
自分を睨みつける恐ろしい瞳はどこにもない。
あるのはただ、自分を愛しそうに見つめてくる温かな瞳だけだ。
「これからはできるだけお前の側にいることにしよう。今までできなかった分、もっとたくさんいろんなことを話そう」
大きな、小夜の頭などすっぽり包んでしまいそうな厚い手の平がゆっくり離れ、そして小夜の体を抱きしめた。
初めて嗅ぐ父の匂いの中、小夜は戸惑いに瞳を揺らめかせる。
戦争が終わって、自分はいろんなものを失くした。
大切な人はもうどこにもいない。
大切な物も全部なくなった。
今の自分は空っぽの抜け殻だ。
だけど――。
今自分を包んでくれている、この温もりは何だろう。
側にいると言ってくれるこの人は、何なんだろう。
そして、胸の奥から溢れてくるこの気持ちは何だろう。
温かく懐かしく、少しだけ泣きたくなるこの感情は。
「とうさま…」
そっと頭上に呼びかけると、わずかに微笑みを浮かべた父の顔が小夜を見下ろしてきた。
「うん?」
途端に小夜は理解した。
この人は自分の唯一の家族で、唯一の存在。
自分はずっと独りだと思っていた。
だけどそれは間違っていた。
自分には無償で愛を与えてくれる温かい存在がいる。
たとえ普段は離れていても、心はずっと繋がっていられるかけがえのない家族が。
どうして気付かなかったんだろう。
「とうさま」
私には父様がいる。
「とうさま」
全身全霊で自分を受け止めてくれる人がいる。
小夜は父の胸に顔をこすりつけた。
「とうさまっ…」
どしゃ降りの雨の中ようやく宿り木を見つけた小鳥のように、必死にその胸にしがみついて。
自分は孤独の闇に捕えられていたのではない。
孤独の世界に自分から閉じ籠っていたのだ。
その向こうにはいつも必ず、光が射していたのに。