「どうして…」
「それが一番いい方法だと思ったからだ」
瞬間、朱里の顔が怒りに歪んだ。
「──ふざけるな!!」
頭に血が上るのが自分でも分かった。
感情のままに師匠の手を払いのけ、代わりにその胸倉を掴んで強引に立ち上がらせる。
抵抗することもなく、されるがままの師匠の眼前に詰め寄って、朱里はその顔を下から睨みつけた。
「なんでそんなことした!あいつは城になんて戻りたがってない!何も関係ないくせになんで勝手なことするんだ!あいつのことなんて何も知らないくせに!」
怒りに身を任せて怒鳴り散らした。
何か叫んでいないと自分が抑えられなくなりそうだった。
師匠は本気で小夜を城へ帰すつもりなのか。
しかも俺たちを騙すように引き離して。
師匠に対する怒りが、腹の底からふつふつと湧いてくる。
対照的に、師匠はひどく落ち着いた様子で朱里を見下ろしていた。
その瞳にあるのは、喚き立てる弟子への嫌悪でも軽蔑でもない。
そこにあるのは覚悟だった。
決して中途半端な気持ちで今回の行動を起こしたのではないのだと、その瞳は顕著に物語っていた。
「お前だって分かってるんだろ。小夜ちゃんのことを思えばこのままじゃいけないことくらい、本当は全部分かって…」
「黙れ!」
それ以上の言葉を遮る。
何も聞きたくない。
全てを拒絶するように、朱里は目を固く閉じて首を左右に振った。
「小夜はもう国を捨てたんだ!あいつはただの俺の相棒だ!マーレン国のことなんか知るか!俺たちには何の関係もない!」
自分でも言っていることが滅茶苦茶なのは百も承知だ。
それでも叫ばずにはいられない。
小夜が城に戻らなければいけない理由なんて何もないのだと、言葉にしなければ現実に押し潰されてしまいそうだった。
朱里の放った言葉に、師匠の顔が曇る。
「…どうして自分で辛くなるような嘘をつくんだ。お前がそんな奴じゃないことくらい、長年一緒にいた俺たちには分かるんだよ。今のお前はただ駄々をこねてるだけなんだろ」
自分自身やけになっているのは分かりきっていた。
嫌だと拒否する心のどこかには、現実を認めている自分もいる。
そうだ、師匠は正しい。
そもそも王女である小夜が、旅人紛いな生活をしていること自体が不自然だった。
王女は総じて城にいるべきだ。それが自然な形だ。
けれど、どうしてもそれを受け入れることができない自分がいる。
あらゆる思いが乱雑に散らばって、収拾がつかなくなった自身を必死に抑え込んで、朱里はなんとか言葉を絞り出した。
「…約束したんだよ、あいつと…」
昨夜、海に行きたいと口にした小夜の姿が瞼の裏に甦った。
本当に嬉しそうな顔で、小夜は朱里を見上げて笑っていた。
交わした約束はそれだけじゃない。
側にいたいと、今まで何度そう乞い願う小夜の言葉を聞いただろう。
何度も何度も、小夜は祈りのように願いを口にしていた。
まるで言葉にして反芻すれば、きっと叶うと信じているかのように。
目頭が熱くなった。
気づけば師匠の襟首を掴んだ腕が小さく震えを刻んでいた。
「…どうしてだよ…」
それだけ口にして、朱里は唇を噛んでうなだれた。
どうして誰も、小夜自身の願いは聞き入れてくれないのだろう。
王女である前に、小夜は一人の普通の少女であるはずなのに。
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