室内に重苦しい静寂が満ちたとき、それまでずっと沈黙を守っていたジライが口を開いた。
「…確かに、僕らは朱里ほどあの子のことを知らない。でも、あの子は本当に今のままで幸せなのかな…。大好きな故郷を捨てて、全ての責任を投げ出して無邪気に笑っていられるほど、あの子は鈍感なのかな…」
問うように呟かれた言葉は、痛いほどに朱里の胸に突き刺さる。
ジライの言っていることは間違ってない。
小夜は鈍感なんかじゃない。
今のままで辛くないはずがない。
それは分かっている。
だけど──。
「…じゃあ俺は?俺はどうすればいいんだよ。あいつと離れて…俺は…」
いつの間にか朱里の手は師匠から離れ、宙を所在なげに彷徨っていた。
戸惑うように泳いでいた視線がその両手に留まる。
開いた手のひらには何もない。
思えば、元々自分には失うものなど何もなかった。
簡単なことだ。
初めから親も故郷でさえ、何も持ち合わせてなかったのだから。
そこに何の巡り合わせか、小夜という相棒を得た。
共に過ごす日々の中で、彼女の温もりに触れ、今まで知らなかった感情も知った。
ずっと一緒なのだと思っていた。
一人きりだったときの自分など思い出せないくらいに、隣に小夜がいるのが当たり前になっていた。
王女である小夜にとっては、朱里といる今のほうがよほど非日常であったはずなのに。
いつからこんな思い違いをしていたのだろう。
本当に自分は救いようのない大馬鹿だ。
うつむいた口元から乾いた笑いが漏れた。
「…こんなことなら、最初から…」
その後の言葉は口にできなかった。
出会わなければよかったなんて、思えるはずがない。
小夜が自分に与えてくれたものは数知れない。
もし彼女と出会うはずの過去が書き換えられてしまったとしても、きっと自分は小夜を探し出そうとするだろう。
たとえ、終わりが必ず訪れると知っていても。
今、自分が小夜のためにできること。
本当は最初から分かっていた。ただ逃げていただけなのだ。
現実から目を背けて、子どものように駄々をこねて、喚いて叫んで。
それが小夜のためになるはずもないのに。
開いたままの両手をゆっくりと閉じる。
うなだれていた顔を上げると、朱里は真っ直ぐに外へ続く扉に目を向けた。
その瞳にはいつの間にか強い意志が宿っていた。
誰に止められることもない。
今度こそ朱里は、拳を握り締めて部屋から駆け出していった。
「…やれやれ」
ゆっくりとその巨体をソファに沈めて、師匠は大きく息を吐いた。
相当疲弊したのか天を仰ぐ目元を手でほぐす師匠に、隣にかけたジライが小さく笑う。
「…損な役回りをさせてごめんね…」
「いや、それはいいんだ。けど」
目元を手で覆って、師匠は再度大きな息を吐いた。
「結構こたえるもんだな」
閉じた瞼の裏側で、自分を怒りのままに睨みつけてくる弟子の顔が浮かんで、それがひどく傷ついたものに変わる。
裏切りだと思われても仕方ないほどのことを自分はした。
その代償は計り知れない。
もう二度と弟子が自分の元に戻ってくることはないのかもしれない。
テーブルに何かが置かれる音がして目を戻すと、気を遣ったのかジライが水の入ったグラスを師匠の前に置いたところだった。
ジライはそのまま窓際に身を寄せて外を眺める姿勢をとった。
「悪いな」とだけ返して、師匠はグラスの中身を一気にあおる。
思った以上に喉が渇いていたようだ。
空のグラスをテーブルに戻すと、師匠は膝に肘をついて、組んだ両手に顔を伏せた。
「…何が正しいのかなんて、大人の俺でさえ分からねえんだ。あいつらに分かれっていうほうが無茶な話だよな」
窓の外に顔を向けたまま、ジライが悲しげに微笑む。
「…みんながみんな、幸せになれたらって願う僕らは、相当欲張りなんだろうね…」
その視線の先には、少女の元へと真っ直ぐに駆けていく一人の青年の姿があるのだった。
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