惟人が去った後は、廊下がどこか重苦しい雰囲気に包まれた。
一人佇む小夜の顔は緊張をはらんで、わずかに強張っている。
誰が待っているのか、本当に自分には全くあてがないのか。
答えは否だ。
小夜は体の横に流した手を強く握り締めて、窓の外を見た。
「…朱里さん」
相棒の名を呼んでしまうのは、不安から逃れるためのものか。それとも単なる甘えだったか。
しばしの後、その姿も廊下から消えた。
「──離せって!」
抵抗しながらその部屋に足を踏み入れた朱里の前には、見慣れた景色が広がっていた。
護衛団のための休憩室のはずだったが、団が解散した今そこは閑散としている。
唯一奥のソファでジライが朱里たちを振り返って小さく笑った。
「…おかえり、師匠に朱里…」
ようやく師匠の腕から解放された朱里は、苛立ちを露わにして、窓際に設けられた椅子に乱暴に腰かけた。
「ほんっと何なんだよ。ちゃんと説明してくれるんだろうな」
師匠を軽く睨みつけると、それを軽く受け流した師匠がジライの隣に深く腰を下ろした。
背もたれに両腕を乗せ天井を仰ぎ見る。
その口が開くのをじっと待っていると、背を向けた窓の外から馬のいななきが聞こえた。
左腕を窓の淵に預けて、朱里は窓ガラスに顔を寄せた。
城の門扉のすぐ側に一台の馬車が止まっているのが見えた。
そこに今ゆっくりとした足取りで小夜の後ろ姿が近づいていく。
馬車の前には見たことのない金色の髪の男が立っていた。
朱里のいる場所からは距離があるためはっきりと見えないが、若い男だ。
「誰だ、あいつ」
目を細めてじっとその男を注視する。
見知らぬ男は小夜に笑いかけているようだった。
まさか本当に花婿候補だったりするのか。
そんなことを考えて、朱里が窓ガラスに張りつくように二人を凝視していると、後ろから師匠が答えを告げた。
「マーレン城からの使者だよ」
振り返った先には、今まで見たことがないほど真剣な面持ちをした師匠がいた。
「なんでそんなやつが小夜に…」
師匠もジライも無言で朱里を見返してくる。
その表情は普段のようにふざけたものではない。
思わず朱里は口を固く引き結んでいた。
何の感情も読み取れない顔で、師匠がゆっくりと口を開いた。
「決まってるだろ」
たったそれだけ。
だが、十分すぎるほどの答えだった。
マーレン城からの使者が王女である小夜に用があるとすれば、答えは一つしかない。
城に呼び戻すためだ。
朱里は勢いよく椅子から立ち上がった。
「…止めてくる」
それだけ呟いて、二人の側を通りすぎようとしたときだった。
伸びてきた手に腕を掴まれた。
「無駄だ。やめとけ」
朱里の動きを止めて、師匠がそれだけ言う。
窓に向けられたその表情はうかがえない。
「いいから離せよ」
腕を振って払いのけようとしたが、その手が緩む気配はない。
朱里は業を煮やして師匠を睨みつけた。
「なんで止めるんだよ。師匠はそんなにあいつを城に返したいのか?ヘンネルだってそうだ。なんで小夜をあんな奴に会わせたりなんか…」
「俺がそう助言したんだよ」
間髪入れずに師匠が答えた。
あまりにその言い方があっけらかんとしていて、朱里は思わず「え?」と聞き返していた。
今師匠は何て言った?
助言ってどういう意味だ?
朱里の頭が言葉の意味を理解するより早く、師匠が続けた。
「ヘンネルは迷ってた。マーレンの民衆が王女を探してるって話を耳にして、どうするべきかな。だから俺が助言したんだ。あの子の居場所を教えるように」
朱里の瞳が大きく見開かれた。
うっすら開いた唇が小さく震える。