本当に頑固なやつだ。
頑なに自分から牢へ入って出てこない惟人の姿を思い出して、朱里はため息を吐きながらその扉のドアをノックした。
惟人と別れた後休憩室をのぞいたが、師匠もジライも不在のようだった。
当然男所帯の部屋なので小夜の姿もない。
もう寝たのかなと思いながら、反応のない小夜の部屋の扉を開く。
室内は灯りが落とされていたが、構わず朱里は部屋に足を踏み入れた。
月明かりに照らされたテラスに見慣れた背中を見つけたからだ。
小夜は朱里に気づくこともなく、空を見上げているようだった。
カーテンを揺らして朱里はテラスに下りた。
「小夜」
呼ばれて振り返った小夜の目には涙が湛えられていた。それがぱっと宙に舞う。
「泣いてたのか?」
思わず尋ねると、小夜が慌てたように服の裾で目元をこすった。
「す、すみませんっ。つい哀愁といいますか、いろいろ浸ってまして」
取り繕うようにあははと笑う小夜の隣に並んで、朱里も小さく笑みを漏らした。
「思い出の場所だもんな」
こうして月の明るい夜に二人でここに立っていると、まるで初めて出会ったときのようだった。
ここからすべては始まったのだ。
「はい…」
懐かしそうに部屋を振り返った小夜の視線が、ふいに朱里に向けられた。
涙の名残を感じさせる濡れた瞳が朱里を映して、どこか悲しそうに細められた。
「本当に、私にとっては奇跡みたいな出来事でした。朱里さんに出会えたこと、一緒に旅をできたこと、こうしてお側にいられたこと、全部が本当に大切な思い出です…」
小さく微笑んで言う小夜の白い頬を、月の光が仄かに照らす。
それがひどく儚げで、朱里は胸に一抹の不安を覚えた。
「なんだよそれ。今生の別れみたいに」
あえて笑って返す。
真剣に向き合ってしまえば、もう戻れなくなるような気がした。
「これからだって一緒だろ。思い出になんかすんなよな」
努めて明るい声で言うと、朱里は小夜から空へ視線を外した。
小夜が今どんな顔で自分を見ているのか、怖くて確かめられなかった。
「朱里さん」
だから名前を呼ばれても、朱里は空を見上げたまま動かない。
耳に自分の心音が嫌に大きく響く。
本当は今すぐに耳を塞いでしまいたかった。
やめろ、これ以上何も聞きたくない。
しかしその思いは小夜には伝わらない。
「朱里さん、私」
朱里は続きを拒否するように、固くまぶたを閉じた。
嫌だ、聞きたくない。
心の中で悲鳴に似た叫びを上げたとき、
「──私、次は海のある街へ行ってみたいです」
予想外にのんびりとした小夜の声が空に響いた。
「へっ?」
素頓狂な声を上げて、朱里は思わず隣に立つ小夜を見下ろす。
こちらを見ているとばかり思っていた小夜は、手すりに身を寄せてどこか遠方に視線を投げていた。
「実は私、まだ海に行ったことがないんです。本や写真では見たことがあるんですけど、ずっと行ってみたいなって」
柔らかな笑みを浮かべた横顔は、もしかしたらはるか遠くに広がる海を思い浮かべているのかもしれない。
穏やかに夢を語る小夜に、言葉どおり朱里の全身から力が抜けた。
手すりを掴んだまま腰を折ってうなだれていると、小夜が慌てたように朱里の顔を覗き込んできた。
「すみません、やっぱり海の街へ行くのは難しいですよね。今のはなかったことに…」
自分の提案が朱里を困らせたのだと思ったのだろう。
すぐさま発言を取り消そうとする小夜に、朱里は顔だけ向ける。
「いや、行こうぜ。海」
「いいんですか!」
ぱっと効果音が聞こえてきそうなほどの笑顔に、朱里も自然と口の端を上げて返していた。
無邪気に喜ぶ小夜の様子に、内心胸を撫で下ろす。
なんだ、俺の思い過ごしだったのか。
旅の終わりは今じゃない。
いや、ひょっとしたら終わりなんて来ないのかも。
小夜の笑顔を見ているとそんな期待も浮かんでくる。