「てめえ!何度も殴んじゃねえよ!」

「殴らせるようなこと言うお前が悪い!」

顔を突き合わせて怒鳴り合う二人の前で、くすっと小さな笑い声が漏れた。

朱里と惟人がそろって顔を向ける。

そこには口元を手で押さえながら、肩を揺らして笑う小夜がいた。

「何笑ってんだよ」

怪訝そうに尋ねる朱里に、

「ごめんなさい。なんだかお二人とも似てらっしゃるなと思って」

「はあ?俺がこいつと?」

「冗談はその頭だけに」

しろと言いかけた惟人の口を朱里が引っ張る。

「お前は口が悪すぎんだよ」

そのまま喧嘩になりそうなところで、小夜の制止の手が伸びた。

朱里の手をそっと掴んで惟人から離すと、小夜は惟人に柔らかな笑顔を向けた。

「私は馬鹿でもいいんです。お二人が仲良くしていただけるのなら、何だって」

言って改めて頭を下げる。

「高台から私が落ちたときも、手を伸ばしてくださいましたよね。ずっとお礼が言いたかったんです。ありがとうございます」

顔を上げた小夜の前には、言葉のとおり目をまん丸くさせた惟人がいた。

惟人は何度か瞬きを繰り返した後、朱里のほうをゆっくりと向き直り、

「…朱里。お前よくこんな桁違いのお人好しと一緒にいるな」

信じられないというように、小夜を指差した。




「小夜、悪い。また後でな」

小夜に軽く手を挙げて、朱里は惟人を連れ廊下を去っていった。

それに手を振って返すと、小夜は二人の背中をぼんやり見守る。

朱里たちの姿が完全に視界から消えると、その頭がゆっくりと下に垂れた。


髪の毛がさらりと小夜の頬にかかる。
瞳は伏し目がちで、どこに向けられているのかはっきりしない。

小夜の小さな手が、スカートの裾をぎゅっと握りしめたときだった。


「お疲れさん」


我に返って振り向いた先には、こちらへ近づいてくる師匠とジライの姿があった。

「あっ、お二人とも、先ほどはありがとうございました」

小夜がぺこりと頭を下げる。

「いやいや、俺らは大して何もしてねえよ」

手を顔の前で振って答える師匠に、

「いいえ、そんなことないです」

即答して、小夜は笑顔で二人を見上げる。

「お二人がいてくださってすごく心強かったです。心の底から感謝しています」


小夜の言葉に師匠が目を丸くした。

隣のジライは無言のまま、急に小夜の頭に手を乗せる。

そのままなぜかなでなでと頭を撫でられて、小夜は目を瞬かせた。

「あ、あの?えっと」

どういう状況なのか目を右往左往させる小夜の頭上から、静かな声がかけられた。

「…よく頑張ったね…」

ジライの声だ。
ジライは小夜の頭に手をやったまま、さらに続けた。

「…あんなこと言われたのに、よく耐えたね…」

小夜の視線がぴたと止まる。

それがさっきイワンからかけられた言葉のことを指しているのだと気づいたとき、小夜の肩に大きな手が触れた。

「今は朱里もいない。頑張って笑顔でいる必要なんてないんだからな」

そう言って温かい手がぽんぽんと小夜の肩に触れる。


小夜はゆっくりと視線を自分の足元に下ろした。

どうして分かってしまうんだろう。
必死に隠していたつもりだったのに。

じわりと視界が歪んだ。

「…よしよし…」

優しい声音で頭を撫でられて、ついに小夜の目から涙がこぼれた。

そのまま溢れ出した涙が頬を濡らす。

「すみ、ません…」

なんとかそれだけ言葉にして、くしゃくしゃの顔をうつむけたまま小夜は泣いた。


悔しくて、悲しかった。

国を捨てたのだと自分では自覚しているつもりだった。

でもそれを人から指摘されると駄目だ。
覚悟していた以上に、その言葉は小夜の胸の奥深くに突き刺さった。

あのときのイワンの言葉は今も胸に刃を立てたまま、自分で抜く術もなく血を流し続けている。

けれどそれを朱里には知られたくない。絶対に。


すべてを解って大丈夫だと言ってくれる師匠とジライの言葉が、今の小夜にはありがたかった。

泣きじゃくる小夜に、ジライがぽつりと呟く。

「…なんなら、僕の胸を貸すよ…」

「お前あとで朱里に殺されるぞ」

間を置かず師匠がそう返すのを聞いて、小夜は思わず泣きながら笑ってしまった。



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