その刃がヘンネルの前に立つ小夜の喉元に伸びようとした瞬間、イワンの体は横からの衝撃を受けて飛ばされていた。
とっさに躍り出た惟人が体当たりをしてきたのだと気づいたときには、その体は床に打ちつけられていた。
小さく呻きを上げて、イワンが再度ナイフを構えて起き上がる。
だが目標の小夜とヘンネルの前には朱里、惟人、師匠、ジライという強力な盾が二人を守るように立っていた。
ちっと舌打ちするイワンからは、いまだ殺気が放たれている。
この状況をどう打開するか視線を巡らせる彼に、師匠が言い放った。
「もう諦めろ。お前の雇い主も全部吐いて、今は牢の中だ。これ以上無意味なことをするな」
イワンの鋭い目がじっと師匠を見つめる。
師匠も答えるようにその視線を受け止めた。
しばしの後、イワンは静かに構えていたナイフを下ろした。
その場にいた全員を包んでいた緊張がふっと緩んだ瞬間、イワンが大きく後ろに跳躍した。
彼の背後には天井まで伸びる大きな窓。
誰しもがしまったと思ったときには、イワンのナイフを握った右手が後ろの窓に思い切り叩きつけられていた。
甲高い破砕音とともに、粉々に散ったガラスの破片がイワンに降り注ぐ。
その中で彼はその場の全員に視線を向けて、片口だけで小さく笑みを形作った。
「あんたらの顔はよく覚えておく」
そのまま音もなく窓の向こうに消える。
後を追おうとした朱里の背中に、ヘンネルの声がかかった。
「いいんだ。彼が私を狙う理由はもうない。放っておこう」
激しく燃える赤い瞳の残滓だけを残して、その暗殺者は闇の中に沈んでいった。
「惟人さん、先ほどはありがとうございました」
朱里に連れられて牢へ向かう惟人を小夜が呼び止めたのは、場が落ち着いた後のことだった。
さすがに疲れたのだろう、自室に戻ったヘンネルを含め、誰も惟人を牢に入れる必要を訴える者などいなかったが、当の本人が頑として譲らなかったのだ。
丁寧な動作で腰を曲げ頭を下げる小夜に、惟人はふんと鼻を鳴らした。
「別にあんたにそんなこと言われる筋合いはねえよ」
言ってその場を去ろうとする惟人の頭を、朱里が思い切りはたく。
「そうじゃねえだろ。素直にここは、どういたしましてだろうが」
珍しく人に説教をたれる朱里。
まさか人に素直さを説くまでになるとは。
成長したんだなと、感慨深げに弟子を眺める師匠とジライの姿も遠くにあった。
「いってえな」
じろりと睨んでくる惟人の視線を受け止める朱里の表情はどこか穏やかだ。
こうやって小夜が無事なのも、惟人がかばってくれたおかげだった。
自分が反応するより早く飛び出した惟人に、朱里は驚きと同時に希望を覚えた。
惟人が小夜に対して敵意を抱いていたのは間違いない。
にもかかわらず、小夜を助けてくれた事実が朱里には嬉しかった。
過酷な体験を幾度も繰り返し、歪んでしまったように思えた惟人は、実は昔とほとんど変わっていないんじゃないか。
朱里にはそう思えた。
「何笑ってんだよ。気持ち悪ぃ」
惟人に言われて初めて、自分の口元が緩んでいるのに気づく。
悪態をつく惟人に「うっせえ」と返して、朱里はその背中を小夜の前に押し出してやった。
「お前だって小夜にかばってもらってただろ。礼ぐらい言っとけよ」
「はあ?」
朱里から視線を戻した惟人の前には、きょとんとした顔の小夜が彼を見上げていた。
惟人は気まずそうに唇を尖らせて呟く。
「俺みたいなやつかばって、あんた馬鹿なんじゃねえの」
すぱあんと軽快な音を立てて、惟人の頭に再び朱里の平手打ちが命中した。