「とにかく、こいつは領主様に刃を向けた罪人だ。牢へ入れておく必要がある」
その場の空気など微塵も気にかけないイワンは、冷たい目を惟人に向け、そのまま流れるように朱里を見た。
「お前、こいつを地下の独房に入れてこい」
雑に背中を押された惟人の体を受け止めて、朱里がイワンを睨みつける。
「こいつに罪なんてない」
「何言ってる。そいつが自分で言ったんだろ。自分は罪だらけだって」
気だるげに腕を組んでイワンが嗤う。
朱里は全身の血が沸き上がるのを感じて、こぶしを強く握りしめた。
その涼しげな顔をぶん殴ってやりたい。
頭に浮かんだ欲求のままに、一歩足を踏み出したときだった。
「朱里さん」
小夜の両手が朱里のこぶしをそっと包んできた。
暴力はだめだと、そう言いたいのか。
思わず見返した小夜の瞳には、彼女にしては珍しく朱里と同じ怒りの色が浮かんでいた。
「だらだらしてないで、さっさとその罪人を連れていけ」
「行きません」
イワンの声に重ねるように答えて、小夜が朱里と惟人の前に出る。
「惟人さんを罰する必要なんてありません。少なくとも、あなたには罰する権利なんてないでしょう?」
小夜の言葉にイワンが「あ?」と眉根を寄せる。
惟人をかばうようにイワンと対峙する小さな背中に普段とは違うものを感じて、朱里は目を瞬かせた。
これほどまでに強く出る相棒の姿を見るのは、初めてだった。
真っ直ぐな目を向けてくる小夜に、イワンが苛立たしさを露わにして迫る。
「何言ってるんだ、お前」
正面から睨むように見下ろされるが、小夜がたじろぐ気配はない。
その意外な姿に思わずその場を傍観していた朱里のすぐ側で、惟人が「やめろ」と声を発した。
「そいつの言うとおり、俺は罪人だ。朱里、牢に連れてってくれ」
その言葉に朱里より先に反応したのが小夜だった。
「だめです、惟人さんっ」
「いいから」
それだけ答えて、惟人は自ら部屋の扉に向かって歩き出した。
朱里が慌てて後を追う。
「惟人、待てよ!」
呼び止められて顔を向けた惟人は、自嘲気味に小さく笑った。
「…甘いんだよ、朱里。俺はお前の相棒も傷つけてる。そんなやつに情なんかいらない」
そのままその表情は伏せられた。
朱里も唇を噛んで同じようにうつむく。
現状をひっくり返すことはできない。
惟人自身、諦めているのだ。
もうどうしようもないのだと嫌でも自覚するしかなかった。
その後二人の元へ駆けてきた小夜が何事かを朱里にささやいて、そのまま朱里は惟人を連れて大広間を後にした。
小夜とヘンネル、イワンの三人だけが残される。
途端に大広間は静かになった。
天井まで高く設けられた窓の向こうから、虫の鳴き声だけが響いて聞こえる。
窓の奥には色濃い闇がのぞいていて、当分この夜が終わらないことを告げていた。
うなだれたままのヘンネルの肩にそっと手を添えて、小夜は彼を立ち上がらせる。
そのままヘンネルの自室まで連れ添おうと足を踏み出した小夜の前に、なぜかイワンが立ちはだかった。
「さて」
どこか楽しげな笑みを口元に貼りつけて、イワンは無造作に手の中のナイフを空中で一回転させてみせた。
まるでピエロのナイフ芸のような動作だったが、彼の目は少しも笑っていない。
むしろどこか殺気立ったものを感じて、小夜は一歩後ろに退いた。
「茶番も終わったことだし、そろそろ本番といくか」
軽口を吐いて、イワンが胸の前でナイフを構える。
「あんたに生きててもらっちゃ困る人がいるんでね」
射るような視線が小夜の背後、領主ヘンネルに向けられた。
照明を受けてきらめいた刃の光が反射して、イワンの目元に当たる。
その瞳は血に染まったように赤い。
小夜はとっさに、すぐ隣に立つヘンネルの前に躍り出た。
両手を大きく広げ、前に立つイワンを見据える。
背後でヘンネルが慌てたように「小夜様」と声を漏らしたが、小夜はその場を動かない。
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