「惟人」

いつものように井戸で水汲みをしていた惟人は、村長の声に呼ばれて家の中に戻った。

「村長さん、どうしたの?」

一人部屋に入ってきた惟人を見て、村長の顔色が曇る。

「マリーは一緒じゃなかったか」

「うん。マリー、どこにもいないの?」

うむと答えたきり黙り込む村長の顔を見上げていた惟人は、思い出したように「あっ」と声を漏らした。

「どうした?」

尋ねる村長に惟人は言いづらそうに口を開く。

「…もしかしたら湖に行ったのかも」

昨日のマリーの顔を思い出して惟人の胸がざわめきを覚えた。

あのときマリーはとても湖に興味を示していた。

さすがに一人では行ったりしないだろうと思っていたのだが、まさか。


「どうしてそんなところに…」

呟く村長に惟人は何も言えない。

自分が余計なことを教えたせいだとは、怖くて言い出せなかった。



心配そうに見守る村長の妻を残して、二人は連れ立って湖に向かうこととなった。

湖と聞いたときから、村長の顔色は優れない。

惟人と朱里がずぶ濡れで戻ってきたときも、あれほど心配させてしまったのだ。
幼い孫娘が一人で湖に行ったかもしれないと聞けば気が気でないはずだ。

だがそれは惟人も同じだった。

昨日のマリーの様子を思えば、もっと彼女に気を配っておくべきだった。

なんだか喉の奥が気持ち悪い。

いつの間にか惟人は村長を置いて一人追い立てられるように森を駆けていた。


嫌な予感と楽観的な考えが頭の中を交錯する。

マリーはまだ小さい。一人だと何をしてしまうか分からない。

でも、きっと大丈夫だ。
ひょっとしたらあそこには行ってないかもしれない。森のどこかで遊んでいるだけかも。

そう自分に言い聞かせても、湖を目指す足は止まらない。

一人で行くわけがない。
だってマリーは言ったじゃないか。
お兄ちゃんが一緒だから大丈夫と。

一人でなんて行くはずがない。



飛び出すように森を抜けた。

視界いっぱいに見慣れた湖が姿を現す。

いつもと同じ穏やかに光を湛えた水面。
さわさわと風に揺れるほとりの草。

何も変わらない、いつもの風景。


「なんだ…」

ふうふうと上がった息を整えながら、湖の淵で惟人は脱力したように膝に手をついた。
やっぱり自分の思い過ごしだったんだ。


「よかった」と呟いて顔を上げたとき、太陽を反射した水面の光が目を差して、惟人は手で日除けを作った。

軽い気持ちでもう一度湖を仰ぎ見る。

きらきらと輝く湖面。
その一点に惟人の視線が留まる。


…あれ?


じっと目を細めて凝視した。


初めは何か袋のようなものが浮いているのかと思った。

風もないのにそれは水面でゆらゆらと揺れている。

なんだろう。

さらに目を細めてその正体を探る。

違う。
袋ではない。

あれは──。



ひさしを作っていた手がゆっくりと下ろされた。

暑くもないのに、背中を汗が一筋伝い落ちる。

変な音がするなと思ったら、うっすら開いた自分の口から発される呼吸音だった。

体の横に投げ出した腕が揺れている。
足は立っている感覚がなく、まるで宙に浮いているようだ。

視界が小刻みに揺れる。

惟人は自分の全身が震えていることに気づいた。



ぷかり、ぷかりと。

彼からそれほど離れていない湖面にそれはあった。



今朝寝ぐせを直してやったばかりの亜麻色の髪が、水面に広がっていた。

ありがとうと嬉しそうに微笑んでいた愛らしい顔は、今はうつ伏せで分からない。

お気に入りの水色のワンピースは湖の水を吸って、濃い青に変色していた。



いつもと何も変わらない穏やかな湖に浮かぶ少女を見つけて、惟人は呆然と立ち尽くす。

のどかな景色の中で、あまりにそれは異様な光景だった。



音もなく止まっていた時は、遅れて到着した村長が足を絡ませながら湖に駆け込んでいったことで再び動き出した。

「マリー!マリー!」

かすれた声で村長に繰り返し名前を呼ばれても、マリーが起き上がることはない。

マリーの元までたどり着いた村長によって、その小さな体は仰向けにされた。

まるで眠ってるんじゃないかと思うほど、安らかに目を閉じたマリーのあどけない顔が、そのとき惟人の網膜にひどく焼き付いた。



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