こじんまりとした室内にはヘンネルの姿はなかった。
部屋の奥には天井まで届くほどの大きな本棚に囲まれた仕事机が設けられていたが、言うまでもなくそこも無人だ。
机上には書類が乱雑に広げられたままになっている。
扉の隙間から部屋をぐるりと眺めて、朱里は背後で様子を窺う小夜に首を振ってみせた。
「駄目だ。誰も…」
いない、と言いかけたとき、職務室の奥から何者かの呻き声がした。
今度こそ扉を開け放つと、朱里は室内に足を踏み入れた。
足早に部屋の奥、仕事机の裏に歩み寄る。すぐ後ろに小夜も続いた。
朱里の視線を追って小夜が顔を下に向ける。
「あっ」
おもわず声を漏らして口を押さえる小夜。
二人の足元には、床に体を横たえたヘンネルの姿があった。
椅子から落ちて倒れたのか、ヘンネルは机のすぐ側で意識を失っていた。
顔を青ざめさせた小夜が、屈み込んで必死にヘンネルの体を揺する。
「ヘンネルさん!大丈夫ですか、ヘンネルさん!」
動揺を露わにする小夜の肩口に手を添えて、朱里はヘンネルの口元に手を当てて呼気を確認した。
規則正しい呼吸。
顔色も決して悪くない。
これは。
「朱里さん、ヘンネルさんは…」
「ああ」
心配そうに目尻を下げて朱里をじっと見つめる小夜に、朱里はひと呼吸おくと、
「寝てるだけだな」
あっさり告げて、健やかなヘンネルの寝顔にため息を吐くのだった。
「いやあ、心配をかけてすまなかったね」
あっはっは、と腹の肉を揺らしながらベッドの上でヘンネルが悪びれずに笑う。
ここは先ほどの職務室とは扉一枚隔てた先にあるヘンネルの私室。
壁一面を覆う大きな窓の傍らにあるベッドに今、ヘンネルは半身を横たえていた。
その側には不安そうな小夜と、呆れ果てた様子の朱里が並んで立っている。
「あんまりご無理をなさらないでください。お体は本当にお大事にしてくださいね」
まるで娘のように、小夜は心底心配そうにヘンネルの身を案じているようだ。
対する朱里はと言えば。
「飯の食いすぎじゃないのか。自己管理くらいしっかりしろよ」
明らかにヘンネルの腹部に視線が注がれている。
要するに太りすぎと言いたいのだろう。
だが、鋭い朱里の指摘にもヘンネルは気にする風もない。
「そうだね。周りからもしょっちゅう言われているんだけど、なかなか」
実行には移せないということなのだろう。
先日の出先での食いっぷりを見ていれば嫌でも解る。
それ以上の言葉をかける気も失せた朱里の横で、小夜がベッドに手をついて口を開いた。
「今日はもうお休みになってください。お仕事はまた明日。ね?」
甲斐甲斐しくにっこりと微笑む小夜。
妙に親しげだ。
朱里は頭に疑問符を浮かべながら、二人に背を向ける。
「ここも落ち着いたことだし、俺たちも飯にしようぜ」
言って職務室へ続く扉に手をかけたときだった。
背後からガラスが割れる大きな音が耳をつんざいた。
一拍遅れて頬を風がかすめていく。
振り返った先には、窓ガラスを蹴破って室内に飛び込んできた惟人が、ベッドに横たわるヘンネルの頭上に鋭い刃物を振り上げる光景が広がっていた。
小夜が身を挺してヘンネルの上に覆いかぶさったのはそれとほぼ同時のことだった。
予想外だったのだろう、振り下ろされようとしていたナイフの動きが止まった。
歯を食いしばった惟人が鋭い眼光で小夜を睨みつける。
「どけ!馬鹿女!」
「絶対どきません!」
惟人の手に握られたナイフの刃が躊躇うように小夜の頭上で揺れる。
朱里は迷うことなく床を蹴った。
注意が小夜に逸れていたため、惟人が朱里の接近に気づいたときにはその手に握られたナイフは朱里の蹴りによって宙に舞っていた。
そのまま体当たりを食らって、惟人は壁際に背を叩きつけられ沈黙した。
床に落ちたナイフを靴先で部屋の隅に転がして、朱里はようやく息をつく。
「よくやったな、小夜」
頭をがしがしと撫でられた小夜が安堵したようにはにかみを浮かべた。
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