「ちくしょう!」
悪態と同時に蹴り上げられたアルミのバケツが、派手な音を立てて道に転がった。
日の沈みかけた夕暮れ時の貧民街は相変わらずしんと静まり返っていた。
数人の青年たちを除いては。
たった今声を上げた青年は不機嫌そうに両手を上着のポケットに突っこんで、地面を睨みつけながら歩いていた。
その後ろには数人の青年と少年が続く。
「惟人の野郎、勝手なことばっか言いやがって。リーダー気取りも大概にしろってんだ」
苛立ちが治まらないのか、さらに怒りの矛先を探して青年が辺りを見回す。
「まあいいんじゃないのか。あいつがいなくたって別に構わないだろ。それにあいつの理念ってやつにもほとほと嫌気が差してたしさ」
すぐ後ろの青年が両手を頭の後ろで組んで口を挟んだ。
「この街を俺らの手で変えるなんて夢物語、本気で信じてんのはあいつくらいだよな」
くっと嘲笑する青年に、前を行く青年がふんと鼻を鳴らして答える。
「一体自分にどれだけの力があると思ってんだかな、あの馬鹿は」
吐き捨てて通りに転がったバケツをさらに蹴り上げる。
大きく弧を描いて宙に舞い上がったそれは、通りの先に立つ影に音もなく捕えられた。
赤い夕陽を背に受け、頭上で掴んだバケツをゆっくり下ろしながらその影が声を発する。
「よお、悪がき共」
野太い声で不敵に笑う巨漢の側で、いつの間に現れたのか細いシルエットの男がぽつりと呟いた。
「…おしおきの時間だよ」
先ほどまで夕陽が差し込んでいた廊下の窓は、いつの間にか一面濃い夜の色に塗り変えられていた。
ぼんやりと窓の向こうに視線を彷徨わせていた朱里は、ガラス越しにこちらを窺う小夜の姿に気づいて横を振り返る。
「どうした?」
「あっ、いえ。何を考えられているのかなと思って」
小夜の言葉に朱里は小さくかぶりを振る。
「悪い。今日の晩飯のこと考えてた」
きょとんと目を丸くした後、小夜が可笑しげに笑みを漏らす。
「そろそろお腹が空く時間ですもんね」
「だな」
軽く笑みを返して、朱里は再び窓の向こうに視線を投げた。
本当に考えていたのはもっと別のことだった。
惟人のこと。この街のこと。
小夜のこと。
そして、未来のこと。
いくら考えても答えが出ないのは解っている。
いや、答えはもうとっくに出ているのかもしれない。
ただ自分がそれを受け入れられないだけで。
ガラスの向こう側で微笑む小夜の横顔。
今はそれがひどく切ないものに感じられて、朱里はそっと視線を逸らした。
白亜の城内は見回りなど不必要なくらいに穏やかだ。
時折廊下をすれ違う人も、軽く挨拶を交わす程度で通り過ぎていく。
どこかの部屋からは楽しげな笑い声が漏れ聞こえていた。
小夜と二人、緩やかな曲線を描く階段を上がり、朱里は大きな両扉の部屋の前で立ち止まった。
「ここで最後かな」
朱里に倣って小夜が隣で扉を見上げた。
「ヘンネルさんの職務室ですね。まだお仕事中なのでしょうか」
その言葉に視線を落とすと、扉の足元からは煌々と灯りが漏れていた。
おそらく小夜の言うとおりなのだろう。
拳で軽く扉をノックする。返事はない。
小夜と顔を見合わせて首を傾げる。
「留守か?」
「お食事に出られているのでしょうか?」
もう一度ノックをするがやはり反応はない。
朱里はためらいがちにノブを掴むと、扉をそっと押し開いた。