城内の見回りと言っても、別段変わったことが起きなければ特にこれといってすることはない。
のんびりと食堂で食後のコーヒーを飲みながら、朱里はふと周囲に顔を巡らせた。
先ほどまで多くの人で埋まっていた円卓は、ほとんどが空席になっている。
「そういや、師匠たちはどこに行ったんだ?休憩室にも見当たらなかったけど」
「ああ、それなら」
向かいの席で小夜が両手を合わせる。
「師匠さんもジライさんも、ヘンネルさんのお願いで朝早くから外に出られたみたいですよ」
「へえ」
尋ねはしたが大して興味もなかったのか朱里は適当に相槌を打つと、円卓に頬杖をついて窓の外に視線を向けた。
陽の光が射す窓ガラスの向こうには、街の家々の赤屋根がずっと遠方まで広がっている。
朝餉の支度中なのか、煙突から煙が流れて空に消えていくのも見えた。
平和だ。
向かいの席では小夜が、湯気の立つカップにふうふう息を吹きかけながら口を寄せている。
朱里の視線に気づくと、少し気恥ずかしそうに笑顔を浮かべてみせた。
先日自分の身に起こったことなどなかったかのように、この相棒は普段どおり穏やかだ。
いや、こいつのことだから、そもそも自分がどんな酷い仕打ちを受けたのか理解すらしていないのかもしれない。
無邪気な笑顔の小夜をじと目で見つめながら、朱里ははあと今日何度目かのため息を吐いた。
「…暇だな」
いっそのこと城内の見回りなど放って、街に出てしまおうか。
朱里の頭にそんな考えがもたげたとき、小夜が身を乗り出してきた。
「でしたら朱里さん!私のお部屋にいらっしゃいませんか?」
カップを両手で握り締めたまま、目をきらきら輝かせる小夜。
対する朱里は若干背を反らせて体を離す。
「何だよ。さっきからやたら部屋に誘ってくるな、お前」
「はいっ。朱里さんに見てもらいたくて」
何がそんなに楽しいのか、満面の笑みを浮かべる小夜の提案に、仕方なく朱里は乗ることにした。
時間は余りある。暇つぶしにはちょうどいい。
小夜の後について部屋の前まで来ると、小夜が後ろを振り返って、
「びっくりしますよ」
歯を見せていたずらっぽく笑うと、大きく扉を開け放った。
途端に気持ちのいい風が頬をくすぐって通り過ぎていく。
部屋に足を踏み入れた朱里は、室内を見て目を丸くした。
広く綺麗な室内。
扉のすぐ側には人が簡単に入れそうな大きいクローゼットが置いてある。
白い薄手のカーテンがなびく大きな窓の向こうにはテラスがのぞいていた。
「ここは…」
立ち尽くす朱里の横から小夜が顔をのぞかせた。
「ねっ、懐かしいでしょう?」
嬉しそうに目を細める小夜の言葉に、朱里も素直に首を頷かせる。
数回ほど入っただけだが、朱里はこの部屋に確かに見覚えがあった。
ここは小夜と初めて出会った場所。
マーレン城の小夜の私室とそっくりだった。
「どうして、こんな?」
「ヘンネルさんがマーレン城に似せて造ったそうです。マーレン城と同じ中庭まであるんですよ」
「やっぱ変わった領主だな」
朱里の中のヘンネル像がさらにあやふやなものになるのは仕方ないことだった。
二人はどちらからともなくテラスへ出ると、並んで城下の景色に目を寄せていた。
小夜が愛おしそうに欄干を手で撫でて笑う。
「ここから飛び降りたんですよね、私。そうしたら朱里さんが下で受け止めてくれて」
「俺は心臓が飛び出すかってくらい驚いたよ。まさか落ちてくるなんて思いもしなかったからな」
あははは、と小夜が声を上げて笑う。
「笑い事じゃねえよ」とその頭を軽く小突いて朱里も苦笑を返した。
「本当に懐かしいです」
ぽつりと呟かれた言葉は、きっと朱里に向けられたものではないのだろう。
真っ直ぐ城下に向けられた小夜の横顔は、どこか寂しそうにも見えた。
この景色を眺めながら、小夜は何を思っているのだろう。
本当に小夜が見たい景色は一体どこなのだろう。
「──戻りたいか?」
無意識に口からついて出ていた。
小夜がこちらに顔を向ける。
いつもより大きく開かれた瞳に浮かぶのは色濃い驚きの色と、そして。
一陣の風が吹いて小夜の髪の毛がその表情を隠す。
風が治まった頃には、すっかりいつもの小夜が戻ってきていた。
ふんわりと微笑みを向けて小夜は答える。
「いいえ。私の帰る場所は朱里さんの隣ですから」
惨酷な質問をしたと自分でも分かった。
だが後悔してももう遅い。
けなげに笑う小夜に、朱里は無言でその小さな頭を撫でてやった。
ごめん、という言葉は喉の奥に呑み込んで。