そんなとき、幼い頃よく父がしたようにヘンネルが穏やかな顔でこちらを振り返った。
「そういえば、一緒にいるあの青年はどなたですか?」
“小夜、今日は一緒に眠ろうか”
一瞬、微笑む父の顔がヘンネルの笑顔に重なり、すぐに青年の姿に変わる。
“ほら、早く来いよ”
そう言って不機嫌そうに手を差し出す銀髪の青年。
ヘンネルの問いに小夜は迷うことなく答えていた。
「──私の何よりも大切な人です」
「何よりも、ですか?」
ヘンネルの言葉の裏に隠された意味も汲んだ上で、小夜は真っ直ぐにその顔を見返す。
「はい」
微塵の躊躇いも感じさせない小夜の応えに、ヘンネルは少し寂しげな表情を残してそのまま去っていった。
小さな月の庭に、ふわりと舞い散る花が風を描いて消える。
父は今どんな思いで自分を見ているだろうか。
小夜は真っ直ぐに空を見上げる。
その濁りを知らない澄んだ瞳には、星々の光がいくつも映り込んで煌めいている。
大切なものはたくさんある。
この国も、この国に暮らす民も自分にとってかけがえのないものだ。
だけど。
父は言った。
自由になっていい、と。
だからこそ私は自分の思うままに生きていきたい。
たとえ、それがどんなに身勝手な望みなのだとしても。
一陣の風が小さく音を立てて箱庭の中を流れていった。
深い闇に塗り込められた世界に、ぽつりとわずかな光が灯った。
それは町の外れ。
ちょうど城から南へ下った辺りに位置する集落には、夜だというのに灯りがなく、密集するように寄り添う家々からは、かすかな人の気配だけがしていた。
そもそも家という表現が適当なのかさえ怪しい。
一見すれば、簡素な小屋が並んでいるようにしか見えない。
その中の一つ、唯一灯りが点っている小屋の中からは、数人の声が漏れ聞こえていた。
さして広くもない室内で顔を寄せ合う青年たち。
忙しなく飛び交う言葉の風圧に、中央の小さな木机の上に置かれたロウソクの炎がゆらゆらと揺れ、彼らの顔に影を生んでいる。
炎に浮かび上がった顔の中に、ひときわ険しい剣幕の青年がいた。
木机の前に胡坐を掻いて座るその青年は、鬱陶しそうに息を吐いて重い口を開く。
「…だから何が言いたいんだ」
自分を取り囲む数人の青年に向けて、冷たい視線を投げたのは惟人だ。
室内には彼を含め7、8人の人間がいた。
皆惟人と同年代だろうか。
大人と呼ぶにはまだあどけなさが残る青年たちばかりだ。
よくよく見れば、どの腕にも鷹を象った刺青が入っている。
惟人の問いに、青年の一人が苛立ちも露わに身を乗り出した。
「さっきから何度も言ってるだろ!個人的な理由で勝手に動き回るのはやめろって言ってるんだよ!迷惑がかかるのは俺たちなんだぞ!」
言うまでもなく、惟人が起こした昼間の事件のことだった。
結局あの後、惟人は仲間たちと共にこのアジトへ逃げ帰ってきていた。
幸運にも城の警備に捕えられた者はいなかったが、惟人の身勝手な行動が原因で仲間までもが危険に晒されたのだ。
責めるのは当然だろう。
周囲の青年たちも同調するように首を縦に振っている。
「リーダーがこんなんじゃ、俺たちだってついていくの考えちまうよ」
やれやれとため息をついて見せた青年の目の前で、惟人が拳を机に叩きつけた。
瞬時にその場の空気が張り詰める。
「…誰もついて来いなんて言ってないだろ」
ぎろり、と音が聞こえてきそうなほど鋭い視線で青年を睨みつけると、
「俺の後ろをお前らが勝手について来ただけだ。不満があるならどこへでも行けよ。俺は一人でもやる」
吐き捨てて、惟人はそのまま仲間を置いてアジトを後にした。
追ってくる者は誰もいなかった。
足元さえ覚束ない暗い通りを、目的もなくただ歩く。
「…独り、ね」
ぽつりと呟いた惟人の目の裏には、昼間の少女の顔が浮かんでいた。
真っ直ぐにこちらの目を見返してくる少女の言葉は、いまだ惟人の耳に残って消えない。
紛れもない事実を告げられたからなのかもしれない。
お前は独りなのだ、と。
「確かに俺はずっと独りだよ…」
独りごちたその口元が、笑みに似た形に歪む。
仲間なんて言ったって、それは所詮表面的な関係だ。
不安や危険を防ぐために群れをなす動物と同じ。
どんなに同じ空気を吸って多くの言葉を交わしても、結局は一人。
だからと言って、少女が言ったように朱里を巻き込みたいわけではなかった。
朱里を独りにさせたいと望んではいない。
ただ、あの朱里が相棒を作っていることが衝撃だった。
しかも相手は無力な女。
ただただ、何故と思う。
なぜ俺ではなく、あの女が選ばれたのか。
その答えが知りたかった。
結局あそこまでしても答えは出なかったが。
舞台から落下していく少女の姿が思い出されて、惟人は拳を強く握り締める。
所詮は罪の上塗り。
自分を追い詰めていくだけだ。
惟人の脳裏から少女の像が消え、過去に見た光景が浮かび上がる。
それは彼の頭の中で何度も繰り返される、色褪せることのない悪夢だった。
緑の茂る大きな湖のほとり。
陽の光を受けてきらきらと輝く水面に浮かぶ、小さな背中。
その背中がくるりと回転して、血の気の失せた幼い顔が惟人をぼんやりと見つめてくる。
唇がゆっくりと開かれ。
“お兄ちゃんのせいだ”
背筋がざわめくのを、惟人は大きく首を振って誤魔化した。
過去の亡霊から逃げるように足早に通りを進む。
「…俺がやらなきゃ…」
自分に言い聞かせるようにぶつぶつと繰り返しながら、惟人は闇の中へ姿を消した。