全身濡れ鼠で戻ってきた朱里と惟人の姿を見て、村長とその妻は相当びっくりしたようだった。
結局、二人とも半ば強制的に素っ裸にされ、暖炉の前に並んで座らされた。
警告されていた湖に行ったことは見て明らかだっただろうに、村長は何も聞いてこなかった。
ただ「無事に戻ってきてくれて良かった」と呟く声だけが聞こえた。
ぱちぱちと音を立てて爆ぜる薪をぼんやり見つめながら、朱里は湖の中で遭遇した不気味な生き物の姿を思い返していた。
こうして落ち着いて考えてみると、あのとき目にしたのは普通の蛸だったのではないかと思う。
単に大きさが異常だっただけで、それ以外に変わったところはなかった。
きっと自分は濃い闇の雰囲気と息苦しさから、過剰に恐れてしまっただけなのだ。
きっとあのまま奥へ進んでいれば、目的の宝が──
「どうしたの?」
考えを遮るように、すぐ隣から声がした。
見ると惟人が不思議そうな顔でこちらを見ていた。
その目はまだ赤く、少しだけ腫れている。
「考え事?」
惟人も湖の中であの生き物を見たのだろうか。
朱里はじっと、暖炉の火を受けて揺らめく惟人の瞳の奥を探る。
「お前さ、あの湖の中で…」
「うん、なあに?」
無邪気に首を傾げてみせる惟人。
少し考えあぐねた後で、朱里は首を横に振った。
「いいや。やっぱりなんでもない」
真実なんて今となってはどうでもいいことだ。
本当にあの神殿に宝が眠っているのだとしても、朱里が湖に近づくことはもうないだろう。近づけば、きっと惟人もついてきてしまうだろうから。
「ほんっと心配性のお人好しだもんな」
朱里の言葉に、惟人がさらに首を傾げた。
数刻後、朱里はこの村を訪れたときと同じ格好で村長の家の入口に立っていた。
見送りはいいと言ったのだが、どうもこの村長は真面目な性分らしい。土産まで持たされて、朱里は思わず苦笑した。
「ここを出た後はどこに行かれるのかね?」
「まだちゃんとは決まってないんだ。とりあえず近場の大きな町を目指すよ」
村長の後ろには、小さな孫娘が村長の足にしがみ付くようにして朱里を見上げていた。
惟人も村長のそばに立っているが、言葉はない。
何か言いたげなその表情に気づかないふりをして、朱里はそのまま扉を抜け村長の家を出た。
たいして歩きもしないうちに後ろから声がかけられたとき、朱里は驚きもしなかった。
声の主が誰なのか、朱里にはよく分かっている。
振り返れば、思ったとおり桃色頭の少年が立っていた。
「なんだよ」
「あの、ね」
ためらうように視線を泳がせた後、惟人はまっすぐ朱里の顔を見て口を開いた。
「僕も一緒に行っちゃだめかな。君といろんな世界を見て回りたいんだ」
予想外の言葉に朱里は目を丸くした。
緊張しているのか惟人の顔は真っ赤だ。
その手は服の裾をぎゅっと握りしめ、朱里の返答を待っていた。
朱里は返す言葉に詰まる。
なんと答えればいいのか、考えあぐねているときだった。
惟人の後ろ、村長の家の扉からひょこりと小さな頭が覗くのが、朱里の視界の隅に映った。
そこにいたのは村長の幼い孫娘だった。
孫娘は不安そうな顔でこちら、いや、惟人のほうを見ていた。
朱里はふっと笑みをこぼす。
「悪いな」
朱里の言葉に、惟人の肩がぴくりと揺れた。
朱里は続ける。
「お前は連れて行けない。俺はこれからも一人で旅をしていくから」
「そんな…」
「それにほら、お前には大事な家があるだろ」
軽くあごを上げて示すと、惟人は思い出したように後ろを振り返った。
そうだ。惟人には温かい家がある。
たとえ血は繋がっていなくとも、惟人を心配し見守ってくれる家族がいる。
朱里の視線の先には確かにあった。
惟人の帰りを待つ小さな少女と、いつの間にかその傍らに立つ村長の姿が。
「それじゃ、俺はもう行くから。元気でな」
惟人に背を向けると、朱里は再び歩き始める。
大事な家と口にした途端、なぜだろう師匠とジライの顔が頭に浮かんだ。
朱里は思わず苦笑いを漏らす。
しばらくしたら、会いに行ってみてもいいかな。
そんなことを考えていたら、また後ろから声をかけられた。
「ねえ、君!」
惟人の声だ。今度はなんだろう。
間をおかずに言葉が続いた。
「──君の名前を教えて!」
そういえば名乗ってなかったっけ。
朱里は笑って後ろを振り返る。
「朱里だよ。朱里」
「朱里…」
頭に刻むように小さく復唱した後で、惟人の顔に満面の笑顔が咲いた。
「朱里!また…また会おうね!約束だよ!」
朱里は軽く手を上げて返す。
そうしてそのままケールの村を後にした。
それきり、惟人と顔を合わせることはなかった。
おそらくこれからも会うことはないだろう。
そう思っていた。
今日という日が来るまでは。
「…こんなことする奴じゃなかったんだ、昔は」
宿屋の一室で、小夜の首の傷の手当てをしながら朱里は呟いた。
長い昔話を終えた後のことだった。
「…悪い」
細められた目の縁でまつ毛が小さく震える。
「大丈夫ですよ、朱里さん。きっと惟人さんは変わってなんていません」
向かい合わせの椅子に腰かけた朱里の顔をじっと見つめて、小夜が続ける。
「だって、惟人さんが朱里さんとお話してるときのお顔、すごく嬉しそうでしたよ。だから大丈夫」
そう言って微笑む小夜の顔には、自分を傷つけた惟人への嫌悪感など微塵も浮かんでいない。
そんな小夜の持ち前の優しさが、今の朱里にはとてもありがたかった。
なぜなら――。
「小夜、この街での滞在もうちょっと延ばしてもいいか?」
窺う朱里に、小夜がにっこりと笑顔を返す。
「もちろんです。お友達は大切にしないとですもんね」
「ばればれか」
思わず苦笑を浮かべる。
惟人に一体何があったのか。
直接話を聞いて、できることなら止めたいと思う。
懸命に笑顔で手を振る幼い惟人の姿を思い浮かべて、朱里は強く拳を握りしめた。
その日のうちに、朱里と小夜の腕には、領主の護衛団の証である赤い布が巻かれたのだった。