湖の中には穏やかな世界が広がっていた。
陽の光が反射して虹色に色を変える水の中を、小魚が群れをなして泳いでいく。
海と違って水流がない分泳ぐのも楽で、朱里は自分が魚になった心地さえした。
ひれの代わりに両足で器用に水を掻き、ぐんぐん湖底を目指して潜っていく。
神殿が少しずつ近づいてきた。
遠目で見た以上に重厚な建造物のようだ。
色こそ簡素な白色だけれど、神殿の周りを囲う石の柱にはきれいな模様が細かく刻まれている。
ここは一体何のための場所なんだろう。
不思議に思いながらも、朱里は神殿の入口を抜け中へ入っていった。
神殿の中に入った途端、空気が変わるのが分かった。
先ほどまでとは一変し、神殿の中は陽の光も届かないほど薄暗く、不気味な雰囲気が漂っていた。
辺りは太い石柱が天井までそこかしこに立っていて、奥の方まで見渡すことができない。
外ではあんなに泳ぎ回っていた小魚も、不思議なことに神殿内には一匹も見当たらなかった。
眼前に広がる薄闇の世界に、朱里の頭の中で警鐘が鳴る。
理由もなく肌が粟立つのを感じた。
”何がいるか分からない”
そんな惟人の言葉がよみがえる。
だが、この世にモンスターやお化けなんてものがいるわけはない。そんなのは全部、朱里がいつも読んでいる冒険小説の中だけの存在だ。
朱里は躊躇いを覚えながらも、ゆっくりと神殿の奥深くへと進んでいった。
足が重い。
まるで粘着質な液体の中を、必死に足を蹴ってもがいているみたいに。
何本もの柱の脇を抜け、朱里は最深部を目指す。
だが、先ほどから周囲の景色は変わらない。朱里の視界にあるのはそそり立つ石柱ばかりだ。
(そろそろ戻らないと息が続かない)
息苦しさと焦燥感から、朱里が目を細めて辺りを見回したときだった。
目の端で何かがきらりと光った。
朱里はじっと目を凝らす。
いくらも離れていない先。柱の影に生まれた色濃い闇の中に浮かぶ二つの光。
吸い寄せられるように見つめる朱里の目に映ったのは、光を囲む歪な輪郭とその周りで踊る何本もの長い足だった。
朱里は思わず口から気泡を漏らす。
大きく見開かれたその目には、常軌を逸した大きさの蛸らしき生き物が目を光らせてこちらを窺う姿が捉えられていた。
朱里と蛸の間に大した距離はない。
朱里が目を逸らさずじりじりと後退するのに合わせて、蛸も柱の影からその長い足をくねらせ朱里に近づいてくる。
足の先まで含めれば、余裕で朱里の身長を超えてしまうほどの巨体だ。
言うまでもなく、こんな異常な大きさの生き物など見たことがない。
朱里は焦っていた。
もう息は限界に近い。
いっそのこと蛸に背を向けて、湖面を目指そうか。
いくら大きさが異常だとはいえ、所詮蛸は蛸だ。人に襲いかかることなんて、普通に考えればありえない。
きっと俺は冒険小説の読みすぎで変な想像をしてるだけなんだ。
そう自分に言い聞かせてみるが、眼前の蛸から目を逸らすことはできない。
もし背中を見せた瞬間、あの長い足に掴まれて湖の底に引きずり込まれたら。
考えただけでぞっとする。
しかしこのままじっとしていても、息が切れて溺れてしまうのは確実だ。
どうしよう。どうすればいい。
朱里が拳を強く握りしめたときだった。
前方の蛸の足が素早い動きで朱里に向かって伸びてきた。
突然のことに朱里は思わず目を閉じる。
そのとき、体が後ろにふわりと引っ張られた。
あとわずかのところで、蛸の足が虚しく空を掻いた。
驚いて目を開いた朱里の視界から、蛸の姿はぐんぐん遠ざかっていく。
背後を振り返れば、そこには朱里の手を引いて必死に泳ぐ惟人の姿があった。
「ぷはっ」
勢いよく湖面に顔を突き出す。
貪るように何度も息を吸い、そのまま吐き出す。
安堵の息をつくと、朱里は隣で同じように湖面に顔を出していた惟人と共に、這うようにして陸に上がった。
互いに四つん這いの姿勢で乱れた息を整える。
「…死ぬかと思った」
朱里が息も絶え絶えにつぶやくと、惟人が首だけ縦に振って返事をした。
二人とも全身ずぶ濡れだ。
特に惟人は着衣のまま湖に潜ったせいで、シャツもズボンもぺったり肌に張り付いている。
「ひでえカッコ」
軽口を叩く朱里も、傍から見ればパンツ一枚の情けない姿だ。
なんとか湖から出ることができた安堵から朱里が笑いを漏らしていると、それまで無言でいた惟人が急に立ち上がった。
「笑いごとじゃないよ!」
朱里を真っ直ぐ見つめて声を荒げる。
両拳は体の横で固く握られていた。
「何かあったらどうするつもりだったの?死んじゃうところだったんだよ!」
唖然とする朱里の前で一息に叫んだ惟人は、そのまま力が抜け落ちたように膝から地面にくずおれた。
顔がくしゃくしゃに歪められ、琥珀色の瞳から大粒の涙がぼろぼろと零れ落ちる。
「君が全然戻ってこなくて...すごく心配したんだよ...!」
「わ、悪かったよ」
慌ててなだめようとする朱里だが、どうすれば泣き止むのかも分からない。
そもそも今まで同年代の人間と絡んだことすらないのだ。
「なんでお前が泣くんだよ」
途方に暮れて、朱里は惟人が泣き止むまで傍らでじっとしているしかできなかった。
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