涙のたまった目で見る小夜に、朱里は今度こそはっきりと答えた。
「それは小夜、お前だよ。小夜が一番大切なんだ」
初めてだった。
初めて名前を呼んでもらえたと小夜は思った。
これ以上ないと言うほど胸の奥から嬉しさがこみ上げてきて、それが涙の粒に変わる。
朱里はそれをぬぐってくれ、止まらないなと言って笑った。
もう小夜に求めるものは何もなかった。
彼女は今とても幸せだった。
今までで一番、幸せだった。
安心したせいか、体中から力が抜けていく。
不思議なことに、あんなに痛かった腕の痛みまでぴたりと治まっていた。
なんだかまぶたがすごく重い。
こんなところで眠ってしまっては失礼だと思うのに、まぶたはどんどん閉じていく。
ほんの少しだけ。
ほんの少しだけ眠らせてください。
小夜の目が完全に閉じた。
……すぐに起きるから──
力を失った腕は、床に落ちる。
「…小夜?」
朱里の腕の中で小夜は目を閉じていた。
「おい、小夜。おいってば」
揺さぶるがまったく目は開かない。がくがくと力なくその体が揺れるだけだ。
朱里は震える手で小夜の柔らかい頬に触れた。
「何だよこれ。おい、聞くだけ聞いてこれかよっ…。あれだけ恥ずかしいこと言ったんだぜ俺…?お前もなんか言えよっ…!起きろってば、小夜!」
小夜の白い頬に水滴が落ちた。
動かない小夜の体を力いっぱい抱きしめて、朱里は顔をうずめる。
鼻に届くのは懐かしい、あの優しい匂い。
「…小夜…小夜っ!!」
そのとき、背後で扉の開く音がした。
その光景に紫音は呆然とした。
小夜を探してマーレン城に入った彼を待っていたのは、涙を流す朱里と、そして。
血にまみれた白くて細い腕が朱里の腕の間から床に投げ出されていた。
紫音はその腕をよく知っている。
昨日その手を引いて歩いたばかりだ。小さくて温かい手だった。
だが、それももう。
彼はそのまま部屋を飛び出した。
足がふらついてその場に倒れこむ。
足に力を入れると彼は再び走り出す。
「……はぁっ、はっ」
…なぜこんなことになってしまったんだろう。
確か今日は二人で城下町を見て回ろうと約束していたんだ。
おいしい店に案内すると言うと、すごく喜んでくれて。
早く明日になればいい、って……。
なのに、なのに、これが僕たちの待っていた明日≠ゥ!?
望んだのはこんな明日≠ネのか!?
頭に父の言葉が響く。
"この国は戦いなしには成り立たない、武国なのだ"
知らない!知らない!
そんなこと関係ない!
大切なものを犠牲にしなければ成り立たない国なんて、僕はいらない!!
小夜。小夜。
昨日初めて僕に笑いかけてくれた。
少しずつだけど距離が縮んでいた。
すべてはこれからだったのに。
僕たちの未来はこれから始まるはずだったのに。
小夜。
僕に必要なのは小夜、たった一人だけだったのに…!
──許せない。
ハンガル王は一人、玉座で悠々と窓の外の景色を眺めていた。その口元には絶えず笑みが浮かんでいる。
どうしてこう戦争は楽しいのだろうか、と王は思う。
戦いになると体中の血が騒ぐのはハンガルの血ゆえだろうか。
紫音が部屋に入ってきたのはそんなときだった。
ゆっくりと歩き出してくる紫音の様子に、王は眉をひそめた。
「どうした? 紫音」
紫音はうつむいたまま玉座への階段を上ってくる。
そして王の前まで来ると告げた。
「…僕たちは罪を犯しすぎた…。今がそれを償う時だ」
ゆっくりと紫音が顔を上げる。
そして腰にかけた鞘から剣を抜き、振り上げた。
「正気か…!?」
動くこともできずに王は手を前にかざすが、それで防げるはずもなく。
「あなたよりは正気だ」
一気に剣は振り下ろされた。
ぴっ、と赤い点が紫音の顔や服に跳ねる。
もう動かなくなったそれを見下ろし、紫音は呟いた。
「大丈夫。あなただけに背負わせませんよ」
表情の見えない目から涙が一筋流れた。
「あなたを諌めることのできなかった僕にも、罪はあるんだから…」
剣先を自分の喉下に向ける。
「小夜…、一人にはしない…。約束したから」
"僕は絶対にお前を捨てたりしない。一生、側にいると誓う"
間もなくして、血に濡れた剣が音を立てて床に転がった。
後を追うように、紫音の体が崩折れる。
それ以降、謁見の間で動くものは何一つとしてなくなった。