そのまま紫音は駆け出していった。
小夜は部屋に入ることなく歩き続ける。
「……様、…お父様…」
その口からは、途切れ途切れに言葉が発せられていた。
「父上!!何がどうなっているんですか!?」
謁見の間で玉座に座っているハンガル国王に、紫音は苛立ちも露わに問いただした。
ここの窓からは遠方の煙がよく見える。
その煙と爆発音の意味するところを紫音はもう知っていた。
「どうしてですか!!小夜は僕の妻、そして彼女はマーレン国の王女だ。こんなことをして許されるとでも!?」
「紫音、落ち着け」
王の余裕の表情に紫音は怒りを募らせ、こぶしを握りしめて王を見上げる。
「父上!いい加減にしてください!!僕は戦争のせいで兄を失った。もうこれ以上何も失いたくないんだ。それはあなたも同じなはずでしょう?」
王の眉が動いた。
王はしばらく考えていたが、意を決したように口を開いた。
「紫音。お前には本当のことを言ってなかったな。お前の兄、アールは死んでなどいない。今もどこかで生きているだろう」
「え…?」
周囲を静寂が包んだ。
ここには二人しかいないので二人ともが黙ってしまうと、恐ろしく静かになってしまう。そんな中で小さい爆音だけが聞こえている。
「アールはな、私が国から追放したのだ」
沈黙を破るように王が言った。
紫音は呆然と王の顔を見つめる。
「どうしてそんなことを…」
やっとのことで出した声は、掠れて空気に溶けてしまった。
「アールはマーレン国王の后、つまり王女の母を、私の命もなしに殺してしまったのだ。それも王女の目の前でな。だから私が追放した」
「そんな馬鹿な…」
紫音には信じられなかった。
あの優しい兄がそんなことをするだろうか?
人を殺すなんて。
そのときふと、紫音の脳裏に小夜が言った言葉が思い出された。
"私はあなたを許せない。だから私に近づかないで、アール…"
確かにあのとき小夜は言った。アールと。
(僕の…僕の兄が小夜の母を殺した…)
思い出の中の、笑って自分の頭をなででくれた兄の像にひびが入っていく。
(兄は優しい人ではなかったのか…)
そしてそれは一瞬にして粉々に砕け散った。もう元通りにはできないほどに。
「紫音、兄のことは忘れるのだ。お前はじき王位を継ぐ。それまでしっかりとこの国を見ておけ。この国は戦いなしには成り立たない、武国だということを」
紫音は王を睨みつける。
自分には今、守らなければならないものがある。
それは小夜の笑顔。
母を亡くした小夜からさらに父まで奪うなど、そんなことをしたら彼女は永遠に心を閉ざしてしまう。
「お願いです、父上。この砲撃を止めてください」
小夜をもう泣かせたくない。
王はじっと紫音を見つめていたが、
「それは無理だ。この砲撃はじきに止むだろう。だが、それが終われば歩兵がマーレンに侵入する。もう命令を止めることはできない。すでに何もかもが動き始めているのだ」
そう言って、首を横に振った。
小夜を悲しませたくはない。
なのに――。
「…父上。あなたはなんて無責任なんだ」
震える声で言い放つと紫音は謁見の間を後にした。
廊下を小夜の待つ部屋へと急ぎながら彼は思う。
僕はなんでこんなに無力なんだろう。僕は自分の情けなさに一番腹を立てている。
どんな顔で小夜に会えばいいんだ。
扉を開けると風が彼の横を通り過ぎていった。
中には誰もいない。
「…小夜?」
不安そうな紫音の声も風によってかき消され、しばらく彼は呆然と窓の向こうに見える黒い煙を見つめていた。
どのくらい走っただろう。
砲撃は止んだのか、もう爆音は聞こえない。
町はまだ見えてこないが煙は近くなっているような気がした。
ときどき風に乗って何かの焼ける臭いが漂ってくる。
周囲はいまだ木々に囲まれた森が続いていた。
「……はぁっ」
自分の息遣いだけが妙に響く。
しばらく進むと、突然熱気を帯びた臭気とともに辺りが開けた。
無意識に鼻を押さえて周りを見渡すと、あちこちで火の手が上がっていた。
「あ…」
小夜は思わず絶句する。
ここがあの、人々の笑い声で満ち溢れていた城下町なのだろうか。
警戒して歩きながら辺りを見る。
家という家は瓦礫になり、道には壁や塀などが崩れて通れないところも少なくない。
何よりひどいのは死体だった。
なるべく目を伏せて歩いているのだが、やはり目についてしまう。
見ると爆発によって死んでしまった人もいたが、剣や槍が突き立ててあるものもあった。