涙と一緒にすべては流れ落ちたのだと思っていた。
紫音だけを見ていればほかのことは一切考えなくて済む。
しかし違った。
ふとしたところで朱里の姿が脳裏に浮かぶ。
そのたびに自分は捨てられたのだと自覚するのだ。
どうしてこんなに苦しいのだろう。側には紫音がいてくれるのに。
「小夜、僕が城を案内しよう。まだ慣れないうちは僕か下女に案内させればいいから」
紫音は丁寧に一つひとつの部屋を案内してくれた。
しかし小夜の頭の中はぐちゃぐちゃだ。
しかも考えながら歩いていると必ず転んだ。
そんな小夜に紫音はそっと手を差し出す。
「大丈夫か?僕の手を握っていればいい」
「あ、はい。すみません」
温かな手に包まれたが、小夜はそれがどうも落ち着かない。
紫音は自分の横を歩いてくれている。
もっとも、二人の身長はそう違わなかったので歩幅はそんなに変わらないのだが。
彼は、朱里はどうだっただろうか。
いつも必ず小夜の前を歩いていたが、二人の距離が離れることはなかった。小夜にいつも合わせてくれていたのだ。
その広い背中を見ながら歩くのが、小夜は好きだった。
そのせいで足元を見ずに転んで怒られることもしばしだったが、それでも見ていたかった。
今考えると、置いていかれないように必死に眼で追っていたのではないだろうか。
捨てられることを常に恐れていた。
嫌われないように、足を引っ張ってしまわないように、頑張って頑張って――結局、捨てられてしまったけれど。
自分は捨てられてばかりだ。
小さい頃、小夜はアールに裏切られた。
そして大人になっても、やはり自分はいらないと言われた。
悪いのは相手ではない。
役に立たない自分が悪いのだ。
「あの、ここには花畑は…中庭はないのですか?」
小夜が尋ねる。
どこを見渡しても石の壁だけだ。空は見えない。
「花畑?ああ、すまない。ここにはそういうものがなくて…。小夜の城にはあったのか?」
「…はい。昔はありました」
うつむいた小夜に紫音は問う。
「昔は?」
小夜は少し微笑んだが、それは悲しみを押し殺しているようにしか紫音には見えなかった。
彼は小夜の手を握った自分の手に力を入れた。
「…燃えてしまったんです、全部。あの戦争で庭は火に包まれました。花は燃えて灰になり、舞い上がってさらに大きな火種になりました…。それ以来、土が駄目になってしまったのか、いくら種を蒔いても芽は出てきません…」
「戦争…。そうか、僕の国とだな。すまない小夜、僕の父はおかしいんだ…戦争が好きだなんて…」
紫音は嫌悪感を露わにして言い捨てた。
小夜はそれを見てほっと息をつき微笑む。
「紫音さんは戦争がお嫌いなんですね」
紫音は小夜の顔をまじまじと見ると、
「当たり前じゃないか。あんな、人をたくさん殺して…得るものなどないだろうに。僕には父上が理解できないんだ。あの人は楽しんでる…。戦争で実の息子を一人失ったのに、後悔の色もない…」
「息子?」
紫音はうなずくと、ちょうど側の部屋の扉を見つめた。
「僕には兄が一人いたんだ。年がかなり離れていて、あまりはっきりとは覚えてないけど、優しい兄だったということは覚えている。普段は顔を合わせることがほとんどなかったが、城にいるときはいつも僕と遊んでくれていた」
扉を開くとそこは誰かの私室のようだった。
紫音はそこに小夜を招き入れる。
白いシーツが敷かれたベッドの傍らの窓がふたつ、開け放たれて部屋の中に風を誘い入れていた。
「ここは?」
小夜は周囲を見回す。さして大きくもない部屋である。
「兄の部屋なんだ。ここはずっと変わらない。持ち主はもういないが、そのままにしておきたくて」
言って紫音は部屋の隅にある机の前に立って、そっと机に指をすべらせた。
机の上はずいぶん整頓されている。
きっと今でも誰かがここを掃除しているのだろう、埃もたまっていない。
「お兄さんのこと、好きだったんですね…」
「うん…」
小さく微笑んで紫音は机の横の棚に飾ってあった写真立てに手を伸ばした。
そこには二人の人物が幸せそうに笑い合って映っていた。
一人はまだ幼い頃の紫音で、そのあどけなさに自然と小夜は顔をほころばせる。
そしてもう一人は。
「こっちが兄なんだ」
そこに映っているのは、紛れもなく小夜の頭に焼きついている顔――アールの姿だった。
「…お兄さん…だったんですか。だからこんなに似て……アールはハンガル国の王子様だった…?」
途中からは独り言のように小夜が呟く。