第8章

小夜と紫音の話





紫音が目を覚ますと、すでに小夜の姿は隣にはなかった。
視線を巡らせるがどこにも見当たらない。

誰もいない部屋の中で、ふと紫音の頭の中にすべては夢だったのではないか、という思いが浮かんだ。

自分があまりにも憧れていたのでこんな夢を見てしまったのではないか。

彼はため息をついてベッドから降りた。服装を整えて扉を開く。


「おはようございますっ!」

下女たちの声に混じって明るい声が紫音の耳に届いた。
彼はすぐにそちらを見る。

そこには彼がずっと見たいと憧れていたものがあった。


(…これは夢だろうか…)

微笑んでこちらに駆け寄ってくるドレス姿の小夜。
彼のところまで来ると、ぺこっと頭を下げて笑う。

初めて自分に向けられた小夜の笑顔に、紫音は涙が出そうになった。

ずっと欲しかったものがここにある。
自分のすぐ側にある。

「朝食を食べに行きましょう。皆さん、待っておいでですよっ。さあ、行きましょう」

小夜は紫音の手を引いて歩き出した。
紫音は驚いて、前を歩く小夜を見る。

長くしなやかな髪が歩くたびにさらさら揺れる。

「さ、小夜…?どうしたんだ…?」

食堂の前に着いたところで紫音は戸惑いながら口を開いた。

横にいた小夜は首をかしげて、

「はい?私は元気ですよ?」

「そ、そうか。それならいいんだ。ところで、みんなが待ってるとは?」

にっこり笑うと小夜は食堂に通じる大きな扉を思いっきり開け放った。
その瞬間、たくさんの話し声が響いた。


「これは…」

大臣や下女や兵士たち、城に仕える様々な人々が所狭しと一つの長机の椅子に腰かけている。

小夜に導かれて紫音は中央の席に着いた。

「みんなで一緒に食べましょうとお誘いしたんです。そうしたら皆さん喜んでくださって。紫音さんは大勢で食べるのは、お嫌でしたか?」

うつむいている紫音に小夜は尋ねた。

紫音の返事を小夜と同じように、周囲の人々もじっと待つ。

一時辺りから音が消え、皆が皆、紫音のほうを見つめた。

そんな中で口を開くと、彼はぼそっと呟いた。

「…嫌、じゃない…」

小さな声だったが、それはよく響いた。

それまで心配そうだった人々の顔がぱあっと輝き、辺りは笑い声や楽しそうな話し声で満たされた。

「良かったです。やっぱり大勢で食べるのがおいしいですもんねっ」

紫音は周りを眺めた。
どの顔も幸せそうに笑っている。

これまではこの長い机にたった一人で、何もしゃべらずに黙々と食べるのが当たり前だったのに。

「…いいものだな…」

「はい?」

紫音の表情が和らいだ。

「初めてなんだ、こうやって誰かと一緒に食事をするのは。いつも僕一人だったから。だけど不思議だ。なぜか分からないが、今はすごく嬉しいんだ。人がたくさんいるというのは、こんなにも楽しいことだったんだな」

小夜も驚いたが、ほかの者たちの驚きはそれ以上だった。
紫音の笑顔があまりにも可愛らしかったからだ。

「王子が笑っておられるぞ…。滅多なことでは表情すら見せないあの王子が」

「ずっと見ていたいほどだねえ」

一斉に自分のほうを見てきた者たちに、紫音は戸惑って、

「な、なんだ?なぜこっちを見てくる?」

隣に座る小夜に助けを求めるように目線をやった。

小夜は微笑んで、

「皆さん、紫音さんの笑ったお顔がとても可愛らしかったので、驚いていられるんですよ。紫音さんは皆さんに好かれていらっしゃるのですね」

それを聞いて紫音は照れくさそうに周りの人々を見た。恥ずかしいのか、苦笑を浮かべている。

そんな彼を見て小夜は思った。

(違う。全然違います。紫音さんはアールとは違う。紫音さんは紫音さんなんだ…)

心が軽くなるような感じがして小夜は微笑んだ。


「紫音さん、何を召し上がりますか?私が取って差し上げますよ」

席を立つと机に身を乗り出す。

「あ、ありがとう。ニンジンが入っていないものならどれでも」

ぴたっと小夜の皿を持つ手が止まった。

「…ニンジン、お嫌いなんですか?」

「ああ、うん。どうもあれだけは苦手で…。あの甘いところが…」


小夜は口元に笑みを絶やさない。

だがそのときだけは瞳に影が差した。


――同じ。

"嫌いなんだよ、ニンジン。あの変に甘いところが口に合わねえ"


このとき紫音には見えていなかったが、彼女はここへ来たときのような無表情をしていた。


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