「…朱、里…さん…」

何日かぶりにその名前を口にすると、小夜はいっそう目頭が熱くなるのを感じた。

「…朱里さん…朱里さんっ…」

ぼろぼろと涙が溢れ出す。

そんな小夜の様子に気づいた紫音は、慌てて手を止めて小夜を抱き起こした。

「さ、小夜?ごめん、嫌だったか?」

急いで小夜の寝巻きのボタンを留めて彼女の顔をのぞきこむが、小夜は泣きじゃくるばかりだ。

「うえっ…えっ…。ひっく、うえぇー…」

「ああっ…ごめん。ごめん小夜!!もうこんなことしないからっ」



涙が止まらない。
会いたい。会いたいよ。

でも、どうして会いたいんだろう?


それはきっと。


朱里さんのことが誰よりも好きだから――。


「ふえぇっ」

顔をぐしゃぐしゃに濡らして小夜はそのまま泣き続けた。ずっとずっと泣いていた。

その涙は小夜が朱里と別れてから今まで感情とともに抑えていたもので、それがこのとき一気に溢れ出したのだ。

しかし小夜には分かっていた。
自分がどんなに泣いても喚いても、大好きなあの人は戻ってきてくれないことを。

自分はもうあの背中を、見ることも追うこともできない。
苦笑いだけど、笑いかけてもらえることもない。

そして、今までもだったが、これからも自分の名前を呼んではくれない。

どんなに願っても彼には二度と会えない。



「小夜、大丈夫か…?」

そっとその肩を支えてくれる腕があった。
自分と同じくらいの手なのにずいぶんと力強い。

寄りかかっていたい、と小夜は思った。

素直にそれを行動すると腕に包み込まれた。
その中は温かい。

上からは優しい言葉が日の光のように降り注ぎ、自分を心配してくれているのがよく分かった。

優しい人だ、と思うのにどうしてだろう。自分は今この人に失礼なことを考えている。


――これが朱里さんだったらいいのに。


でもこの人にはきっと分からない。
なら、何を考えたっていいはずだ。




どうしていいのかまったく分からないほど紫音は困り果てていた。

突然小夜が泣き出したのだ。
自分はまだ痛くなるようなことは何もしていないはずだが、と思うのだがこの状況を見るとやはり何かしてしまったのだろう。

しかしどんなに謝っても小夜は泣きやまない。それどころかますます激しくなる一方だ。

そんなとき、ふいに小夜が寄りかかってきた。
恐る恐るその肩に腕を回してみる。

「小夜…もう痛いことなんてしないから、このまま休め。疲れただろう?」

それに従うように小夜のまぶたが閉じられた。

「おやすみなさい。……さん…」

「え?」

聞き返したが、すでに小夜は寝息を立てて眠ってしまっていた。

そのあどけない寝顔に紫音は顔をほころばせる。

起こしてしまわないように、そっと体を横たわらせ自分も隣に横になった。
疲れていたのだろう、紫音もすぐに意識を失ってしまった。

闇に包まれた世界の中、二人はともに眠っている。




別の部屋ではほのかな灯りの中、王が数人の男たちと何やら話しこんでいた。

「いつ、決行しますか。準備は整っておりますが」

一人の男が小さな声で言った。

「なるべくお早いほうが。延ばすと知られてしまう恐れもあります。そうなると、いろいろややこしくなるでしょう」

今度は別の男がぼそっと言った。その会話の中心である王は口の端を上げて笑っている。

「いつにしろ、結果は同じことだ」



怪しい雲が闇に沈んだ空を覆っていく。

その中で小夜と紫音の無防備な寝顔だけが、まるで別世界のもののようだ。


子供たちが知らない間に、すべては進行していく。

それが果たして幸福なのか、あるいは悲劇なのかは小夜にも紫音にも、そして朱里にも分からない。

三人は知らぬ間に、渦中へ引きずりこまれてしまうのだから。



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