「朱里さんはお優しいです」

「はあ?」

朱里が小夜の言葉に目を点にしたときだった。
一人の少年が木の陰から姿を現した。


瞬間、小夜の表情が固まった。朱里もいきなりの出現に目を見開く。

「な、なんだよお前。こんな朝早くに」

言って、小夜の腕を掴み立ち上がらせると、「しっかりしろよ」と声をかける。

少年は昨日より一層機嫌が悪そうな顔をして二人を見ていた。

小夜は何度かまばたきをすると少し落ち着いたのか、ふうと息をついた。

「あの、昨日はすみませんでした。あんなに大声を出してしまって…反省しています。本当に、ごめんなさい…」

ぺこりと頭を下げる小夜だが、その背中がわずかに震えていることに朱里は気づいた。

表面ではなんとか平静を保っているようだが、やはり怖いのだろう。

その原因は直接的にこの少年にあるわけではないようだが、少年がきっかけを作っているのは確かだ。

(似ている、とか言ってたけど、そんなに怖い奴なのか、アールってのは)

その面影をここまで怖がっているのだ。本人に会ったら、小夜はどうなってしまうのだろうか、と朱里は一瞬寒気を覚えた。

だが今の問題は目の前にいるこの少年だ。

「何しに来たんだ。昨日言ってたことだったら無理だからな。何度来たって無駄だぞ、こいつがオーケーしねえよ。けっこう頑固だしな」

言いながら朱里はこつん、と小夜の頭を指で小突いた。

「あてっ。朱里さん、何の話をしているんですか?頑固とは、もしかしなくとも私…」

「お前以外の誰がいるんだ」

そんな二人を見ていた少年の顔にどんどんと怒りが湧いてくる。

──なぜ…!?

「…どうしてだ!どうしてそいつに触られても嫌がらないんだ!!」

気づいたときには少年は自分でもどうしようもないくらいに叫んでいた。

頭に血が上ってしまったのだ。

少年は小夜に近づくと、その肩を乱暴に掴んだ。
ビクッと小夜の体が揺れる。

「……っ」

恐怖に目を閉じる小夜の顔を見てようやく、少年は我に返り手を離す。

また怖がらせてしまったのか…。

「…なんでそんなに怖がるんだ。そいつには触られても平気なのに、僕が触るとどうしてそんな…。怖いことなんてしないよ、絶対しないから…僕を拒まないでくれ、小夜」

一転して少年の顔が悲しそうな色に染まる。

「あ…ち、違いますっ!拒んでなんていませんっ。ただ、私の心が弱いから…」

小夜は震える両手で、ぎゅっと少年の手を握った。

「ほら、大丈夫です…。ね?」

その震えは少年の手にも伝わっていたが、少年は黙ってうなずいた。

小夜の温もりが少年を安心させる。

それを横で見ていた朱里は、やれやれといった感じに口を開いた。

「ところでお前、どこの誰なんだ」

小夜に手を握られてうつむいていた少年は、ぱっと赤い顔を上げた。

朱里を見て、それから正面の小夜を見る。

「僕は」

風が吹いた。

「僕は、ハンガル国王の息子、紫音。小夜の婚約者だ」

小夜の、目が大きく見開かれる。

「ハンガル…国…?」

小夜の耳に心音が響いた。
脳裏を何かが通りすぎる。

『お母様っ…』

幼い自分の頬を流れる涙。

『…が、ハンガル国がお母様を──』

小夜はとっさに少年から手を離した。

(…この人は…やっぱりアールだ。あのアールだ…)

どくんどくんどくんどくん。

震える足で後ずさる。

離れないと。近づいては駄目。離れないと。

危険信号が体中で鳴り響いている。

「小夜…?」

少年はどうしたのかと小夜に手を伸ばした。

手が、近づいてくる。

どくんどくん。

私を捕まえようとする手が。

逃げないと。
早く逃げないと。


「おい、どうしたんだよお前。落ち着けって」

ぽんっ、と朱里の手が小夜の肩に触れた瞬間。

「うわっ」

小夜の体が後ろに倒れた。
朱里がなんとかその体を抱きとめたが、そのときには小夜の意識は失われていた。



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