それを聞いて小夜はあからさまに慌てた。手をぶんぶん振りながら、
「ち、違うんですっ。本当に何もされてないんです。あの方に声をかけられて、私びっくりしてしまって…」
「びっくりって、あそこまで驚いたりしねえだろ、普通」
あれは驚いたというよりも、恐れていた、心の底から恐怖を感じていたという様子だった。
朱里が小夜を見ると、彼女は目を机のほうにふせていた。
ぽつりと呟く。
「似て…いたんです…。すごく似ていたから……アールに…」
「アール?」
誰だと訊こうとする前に小夜は席を立った。
「私、先に部屋へ戻ってますね」
悲しそうな、寂しそうな笑顔を残してそのまま去っていく。
朱里だけが一人その場に取り残された。
「…んだよそれ。謎だけ残しといて逃げんのかよ」
朱里の頭に小夜の辛そうな顔が浮かぶ。
「…っわけ分かんねえ!!」
こぶしを机に叩きつける。
いつもは一緒に、とか言ってるくせに自分のこととなると自分一人で抱えようとするんだ、あいつは。
肝心なことは俺には何一つ教えない。俺は信用されてないんだ。
朱里は急に自分が情けなく思えてきた。
重いため息をつく。
「なんか最近、俺ため息ついてばっかだよな…」
前に置かれているニンジンが残った皿を見て、さらにため息をつく朱里だった。
「はあ…」
そしてここにもため息をつく少年が一人。
昨夜はあれからまったく眠れず、早朝に宿を出たものの道には人の姿は見られなかった。
早すぎるのだ。
これでは小夜を探そうにも、まだ眠っていてベッドの中だろう。
これからどうやって時間を潰そうか考えながら、少年はいつの間にか商店街まで来ていた。
さすがに店は開くのが早いらしく、あちらこちらからいい匂いが漂ってくる。
そういえばまだ朝食をとっていなかったな。
少年は目についた一軒の店の前で立ち止まった。
そこはサンドイッチ屋で、こんなに早いのにもう客が一人並んでいる。
(サンドイッチでいいか。朝から重いものは食べられないし)
その客の後ろに並ぶ。
何気なく見た客の横顔に、少年は目をみはった。
(こいつ、昨日小夜と一緒にいた…!)
少年に気づくことなく、朱里はサンドイッチを二つ買うと立ち去っていく。
慌てて少年はその後を追った。
もちろんサンドイッチを買っている暇はなかった。
(やった。これで探す手間が省けた。すぐに小夜に会える…!)
尾行を始めて間もなく、朱里は町外れの小さな公園に入っていった。
その公園は木々の緑が多く、少年の都合のいいことに体を隠せる場所がたくさんある。
(ここにいるんだろうか?)
少年が辺りを見回すと、
「朱里さーんっ」
一人の少女が朱里に駆け寄ってくるのが目に入った。
(小夜だ…!)
急いで近くの木の後ろに隠れる。
小夜は笑顔で走っていたが、突然何もないところで転んだ。
(…あっ!)
小夜のところに少年が駆け寄ろうとする前に朱里が動く。
小夜の側にしゃがみ込んだ彼は苦笑いをこぼしていた。
それを木の陰から見て、少年はこぶしを握る。
(…触らないようにしないと。僕が触ると小夜は嫌がる。昨日みたいなことには決してなってはいけない)
いつ出ていこうかと、少年はタイミングを計るため二人のほうを見る。
小夜は地面に座り込んで右手を朱里に差し出していた。
その手のほどけかけた包帯を、朱里が巻いている。
巻き終えると朱里は小夜の腕をぐっと掴んだ。
(──あ…)
触った。
僕と同じように、小夜の腕に。
なのにどうしてだ。
彼女は笑っている。
少年の目が大きく見開かれた。
触ったのに、どうして嫌がられないんだ?
どうして拒まれないんだ?
ぎゅうっ、と強くこぶしが握られた。
それは、初めて彼女に触れた特別な手。
僕は拒まれたのに──。
「ほら、肘ケガしてるぞ。こけたときに擦ったんだろ。たく、なんで何もないところでこけるんだ、お前は」
呆れたように腕を掴んで見ながら朱里が言う。
それに答えるように小夜は笑って、
「自分の足に引っかかってしまいました。でもこれくらい平気ですよ。あまり痛くありませんし」
腕をぶんぶん振って見せた。
「お前、痛みに鈍感だからな。これくらい貼っとけよ」
ぽいっ、と投げ渡された絆創膏を見て小夜は笑った。