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「お願い、忘れさせて」


*という少女にとってそれは、一種の地獄であった。

エビングハウスという学者が提唱した、忘却曲線というものがある。
人間が記憶を保っていられる時間を、覚えたものを緩やかに忘れて行く様子を記録したその曲線。彼女はいつもそれを、一種の憧れを持った目で見ていた。


「ミュウツー、ですか」

与えられた資料に目を通しながら、*は呟くように返した。おずおずと頷くのはロケット団で働く研究員だ。*の特殊な立ち位置とその能力、そしていつも変わる事の無い仏頂面が、研究員たちが彼女にさえ敬語を使う理由だった。
どこか焦った表情で顔を見合わせる研究員たちを尻目に、*はぱらぱらとホチキス止めされた資料を捲る。それはある小さな研究機関で誕生した、世界で最も珍しいポケモンから作られた人工生命体。その生命維持装置の中での成長過程と脅威の能力、そして使い道への考察。それらに冷めた目線を投げかけながら、*はページを捲る。
やがて一つ溜息をつくと、それを押し付けるようにして手近な白衣に渡すと、ソファから立ち上がった。

「それで、ミュウツーは…」
「私に聞かないでください。お決めになるのはサカキ様ですから」

他者を寄せ付けまいとするその言葉遣いに押され、一瞬の沈黙が訪れる。それを引き裂くように到着したエレベーターに乗り込みながら、彼女は一瞬目礼をした。ゆっくりと上に上がって行くそれを目で追いながら、誰かが安堵のため息をついた。


「それで? 彼らからの報告は?」
「ミュウツーを我がロケット団の研究所で研究することで、多くのポケモンのコピーを生み出す技術を開発することが出来るだろう、と」
「お前はその言葉を信じているかね?」
「いいえ」

彼らは無能です、と*は言い切った。
その答えに満足したのか、ロケット団のボス―サカキは、腕を組んでちらりと*を見る。

「だが、捕獲する価値はあるのだろうな」
「ええ。研究材料になるかはともかく、ミュウツーの戦闘能力は相当なものだと予想されます。下っ端の戦力、一人分の1250倍―彼らが与えられたズバットを育てていなかった場合に限りますが―また、幹部の戦力の…」
「もう良い。それで、奴が目覚めるのは何時頃だと?」
「資料に寄ればそろそろ成体としての体の機能が整って来ているため、継続的に行っていた睡眠薬の投与を終了すると。…恐らく、明日にでも」
「良かろう。では、明日その島へ向かうことにするか」
「分かりました、ではヘリコプターを準備させます」

頭を下げ、*は部屋を後にしようと踵を返す。
その背中に、サカキの言葉が投げかけられた。

「*」
「何でしょう」
「…お前は有能な秘書だ」
「ありがとうございます」

その表情からは、喜びは伺えない。恐らく*の笑顔を見たことのある団員はいないだろう。彼女は此処へ連れてこられた時から「不気味な子供」だった。

自室へ戻り、電話でヘリコプターを使う事を伝えておく。明日の決められた時間までには整備が整うはずだ。
薄暗い部屋の電気もつけず、彼女はベッドの上に体を横たえた。
段々と闇に慣れてくる目を、半ば強制的に閉じる。

「―見たくない」

蚊の鳴くような声で、*は呟いた。
徐々に近寄ってくる微睡みに体を任せ、呼吸を穏やかなものに切り替える。
頭の中を過ぎ去っては戻ってくる、様々な「記憶」たち。
それらは、彼女が生まれた日から先ほどの資料までを完全に網羅する。
徐々に失速して行く頭の回転と意識の中に、*は完全に沈み込んだ。


彼女がサカキに伝えた通り、その日の夜にはミュウツーが研究室に連れてこられた。
サカキはミュウツーに専用の鎧を装着させてその力を制御させ、間もなく専用の部屋に彼を閉じ込めた。鎧には3つ、計45桁のパスワードがかけられ、かくしてミュウツーはロケット団の秘密兵器として活用されることになった。団の研究所で行われた検査の資料を見ながら、*は数多のコードに繋がれたそのポケモンをちらりと見た。

「…あれがミュウツーなんですか?」
「ええ。人間並みの頭脳を持っており、我々の問いかけにも時折反応を返します」
「ふうん……」

ポケモンは鎧に覆われ、その姿を直に見る事は敵わなかったが、人とそう違わない姿形、そして大きさをしていることは安易に予想できた。
*の瞳は再びミュウツーをちらりと捉え、そして研究員たちへと滑る。

「サカキ様は実戦力としてのミュウツーをご所望です。無駄な研究で体力を消耗させる事がありませんように」

念を押すように言って、資料を突き返す。受け取った研究員たちは、半ば走るようにしてその部屋を後にした。残されたミュウツーは、鎧の下で何を考えているのか。
*の値踏みするような視線にも、何も言わない。

「生きてるの?」

*が目を細めて問いかける。目の前の存在からは、呼吸の音すら聞こえてこなかった。

「判らない」

幾分かの間の後に、ミュウツーは答える。その返答に鼻を鳴らして、*はその場を後にした。




2010/08/15





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