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闇と桜の木の下で [1] | ナノ
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闇と桜の木の下で [1]


 春を期待させる、どこか気持ちも浮ついてくる。そんな早春。まだまだ朝晩は頬に滲みるような冷気に包まれ、朝靄の中、冬のぼんやりと凍てついた姿よりは僅かに力量を増した朝日が昇る。

「とにかく、昨夜はご馳走さま。早い時間にすまないな」

 通話の先、返ってくる声は深く優しい低音。次も必ずと、通話を切った。
 泡雪のような桜の花。サワサワと風が揺らす、慎ましい芳香を乗せて。

 革靴を慣らし、いつもの道を歩く。昨日までとは違う足取りで。
 昨夜、通話していた相手から渡されたものは、ポケットに御守りのように忍ばせている。
 ここは、小さな水路の通り道。住宅街の裏にあって、朝は通勤や通学のために人々が行き交う。夜は――――寂しいものだが、外灯がひと通りの少ない歩道を僅かに照らす。

 そして今は華やかな。百花繚乱、満開の桜がこの道を飾る。


 できれば避けたかった、このインタビューのような雑用。元は懇意にされている助教授の手伝いで、助教授が学会から戻ってくるのが予定より遅くなったため、若い女性の記者の相手をさせられている。
 内容は医学的なもの以外に及ぶどころか、それ以外のほうが遥かに多いだろう、たくさんの質問をされる。

「高橋さーん、好きな食べ物は? 好きな花は?」

 その度に曖昧に答える。

「じゃあ〜〜好きなタイプの女性は?」

 この質問をする時、相手の興味はいっそう強いものに聞こえる。

「……そうですね。バカな巨乳女は嫌いですね」

 そう言うと、辛辣な物言いにびっくりしたのか、それともあからさまな表現の単語を選んだからか。

「わかりますわ! 高橋さんってそういうタイプが苦手そうですよね〜。 ギャルっぽいとか高橋さんに全然似合わないわもの! やっぱり高橋さんにお似合いの女性って……」

と、うふふと秘密を匂わすような笑みを向ける。話す女性は胸を最大限アップしていた。そして嘘か本当か、アップした胸の谷間の形で豊胸かどうかわかるとかなんとか、医学部で誰かが騒いでたな、と思い出す。質問者はYになった胸の谷間を自慢げに見せていた。その胸には小さな赤いハート型のトップのネックレスが揺れていた。
 話す内容は……という感じだった。しかし、こちらがそのノリに黙っていると、更に上目遣いをして身をくねらせている。体が揺れるたびに赤い小さなハートのトップや、巻いた髪の間からイヤリングが見える。腕に巻いた、丸いものが連なったブレスレットも煌めき、何より赤いハートのガラス瓶に入ったクリスチャン・ディオールの香水「ヒプノティックプワゾン(催眠毒)」と似た香りが匂い立ち、苦笑いしかできない。

「あら、脱線しちゃったわ。では、最後の質問ですが」

 柔く微笑みながら頷くと質問者の、グロスが強めに塗られた、赤みの強いリップから発せられた言葉は。

「好きな色はなんですか?」
「そうですね……好きな色は白や青ですが、苦手な色がありました」

 思わず。なんでそんなことを話したか、自分でもわからなかった。

「え? それは……」
「黒です。黒が苦手でしたね。今は大丈夫ですが」

 詳細に言えば、昨夜から苦手じゃなくなったのだが、そこまで言うのも野暮だと思った。

「黒、ですか……高橋さんにはお似合いですよ? なぜ苦手だったんですか」

 これ以上も言うつもりはなかったのに。なぜだろう、質問してくる女性の口紅や髪型、振る舞いが似ていてそう言わせたのか。

「なぜか――――――そうですね、死を。連想させられることがあって」

 そう答えたら、相手をぎょっとした顔をさせてしまった。



 数ヶ月前。そんな昔でもない。
 一本の電話が、決定的な事実を告げた。深夜に鳴った、それは自宅の据え付けの電話。
 携帯電話にはある時間帯から、たくさんの着信があった。しかし、電源をオフにしていた自分は携帯電話を手にすることもせずにいた。

 普通の、たわいもない日常。帰宅した弟・啓介と談笑していたり、静かな夜を過ごしていた。

 夜中の執拗な電話に啓介が気がつかなかったのは、自分と夜食を食べたあとに彼が出かけたからだ。啓介が出かける――――そういう話をしていたのもある。走り込みは何より大切なものだよと。
 啓介が目指すものは遥かに高いものだろうと。焚き付けたと言えばそうなるんだろうか。

 深夜、誰もいない広い家の中でひたすらに鳴る電話の音が。警察に知らせなかった、自分の非の一切を咎めている気がした。


 ただの電話で変なところはなかった。日常の別れの挨拶だと思った。そう何度繰り返したろう。実際は不穏なものは感じてたが、通報することはしなかったし、日常生活に逃げたと言えばそうなるのかもしれない。

「おまえが電話を受けた時に警察やオレに知らせてくれれば! おまえが!!」

と、何度も叫ばれた。そうなのだ。実際そうなのだ。
 ただ、北条先輩の恋人であり婚約者であるなんて知りもしなかった。婚約者がいると話された時も、それが自身の親しい先輩であるなんて言わなかった。いつも人目を避け、大学から離れるようクルマでの移動を強いられた。それに、お互いの家がどこにあるかも詳しくは知らなかった。付き合いと呼べるほどの関係でもなかったのだ。
 彼女は先輩という立場から接触を持ち、自身のことを知っていたのか、何故かはじめから名前呼びをした。態度はいつも、女性性と年上であるという立場を前面に出した命令口調であった。その狙いの根本はありがちな、そういう方面での誘いだった。それだけのために人の虚を突き、人の弱点を嬲り傷つける。簡単には答えられないほどの思い深い問題でも、答えろと笑みで詰問する。
 ろくにその人間のことを知らないのに、訳知り顔で断罪するという行為を、誰かに非難されるとは微塵も思っていない強固な自己肯定性、そうやって生きてきて、批判などされたこともなかったのだろう。それは彼女の元より持ちうる自己愛的な性質なんだろうと思う。
 なぜ、呼びつけられるがまま何度も会ったのかわからない。斬りつけるような答えのない禅問答を繰り返されるだけなのに。自己否定感の強い人間は、自己愛性の強い人間に引っ張られるものだからか。言いように言われるがまま、内心自分はーーーーーー。

 ただ、最後の電話がかかってきたその後、自分はなぜ電源を切った? 自分でもわからない。わかっているが明確にしたくない。だが――――――行動を追えば、自分がどう腹の中で思っていたのか、如実に明確にしてくる。
 警察や先輩になんでなぜと、何度も詰められた、なりふり構わず大学や警察に問い合わせをし、もう少し発見が早ければ、あの傷、あの出血なら助かったかもしれない……と。
 そうしなかったのは……。
 罪に問われない罪。だが、罪だろうと心底思う。

 警察署で再会した、自分に夢を与えた恩人である先輩は、この世の不幸を一身に背負ったように泣き叫んでいた。その人に殴られた傷は、貼って誤魔化す人工皮膚のようなもので隠した。破かれた血のついたシャツはそっと廃棄した。朝方にけたたましく更に鳴った電話は、自分と話をするために親が帰宅する旨を伝えるものだった。
 その後からかなりの日数の間。様々な場所、人、それもかしこばった格好で、頭を下げて話をした。それどころじゃすまない人達へは弁護士が赴いた。まるで、自分が犯罪者になったかのような期間だった。一人娘を返せと物を投げつけられ、会社も倒産しかない、破産だ破滅だとおまえのせいだ、おまえさえ娘をたぶらかせなければと言われ、この人殺しと叫ばれた。本当のところ、そうなのかもしれないとまで思った。

 葬儀にはもちろん参加はしていない。家同士も昵懇、幸せな未来である結婚を約束されていたのを破壊した張本人、加害者である自分が参列を許される訳が無く、贈った花もあちらの弁護士に受け取りを拒否され接触を持つなと警告された。
 彼女にも親にも婚約者にも自慢だったろう、見栄えのよい容姿は骨と灰になるまで燃やされ、冷たくもの言わぬ新しい墓石になった。あの電話のあとはその姿になったことしか知らない。四十九日当日も、流石に墓に行くのも気が引けた。少し日が経った頃に黒い墓石を目の当たりにした。そして、百合の花を飾ろうとしてもご遺族や先輩が心尽くしたのだろう、まだまだ生き生きとしている仏花ではない、彼女に相応な絢爛豪華に飾られている花を見ると、地味な自身の花を飾る気も引けてしまった。元より、加害者であろう人間からの花束であるし、その花は申し訳ないからお寺さんにいただいてもらった。

 そして色と言えば。

 細く白い手首から流れたのは。
 赤のイメージを持つ彼女が、好んで使っていた香水の瓶と同じ赤い色だった。その赤い海の中に色のない体が横たわっていたらしい。手元には携帯電話がそばにあったらしい。通話は自分にかけてきたのが最後だった。先輩へはその数日間かけていなかったらしい。最後になにか、家ごと面倒を見、世話になった婚約者たる人間になにも言わずにというのが、一番残酷な結末であったように思う。
 彼女が彼女たるよう生かしていた液体は、死因になるほどにかなり流れ出たらしい。彼女が好んだカクテルの女王マンハッタンのようにねっとりと赤く豊潤で艷やかで、生命力に溢れていた液体は、冷たい浴室の床を伝って排水溝から下水へと流れ、汚濁にまみれて薄まって行ったのだろうか。考えると胸が悪くなる、だから赤い色も苦手といえば苦手だ。
 まったく医師になるというのに、外科医になれと親からもずっと言われているのに。このままでは内科医のほうがいいんじゃないかとまで思う。つくづく、解剖実習が一年のときでよかったと思う。今ならキツイものがあったかもしれない。

 そして 黒い墓石、黒い服。
 さらに、昔に聞いたことがある話を思い出す。人を殺した人間の身魂(みたま)は、黒く滲んでくるんだよと。おそらく、自分にも黒い滲みがついているんだろう。



 徒歩で駅まで向かう。その時間は好きだ。医学部へ行けば、晒される好奇の目がある。噂はあっという間に広がったらしい。どこから漏れたのかさっぱりわからないが、同じ大学に通う人間同士が起こしたことなのだから仕方がないだろう。気にはならないとも言えないが、よくぞここまで狭い世界の中、真面目そうな風体の生徒ばかりの中、1人派手めで目立つ彼女は隠し通したものだと感心する。

「よお。涼介」
「史浩、ちょっと久しぶりかな」
「少しの間、休んでたろう? 心配したぞ?」
「ありがたい、そうなんだ。ちょっと体調を崩したけど、もう大丈夫だ」

 傷も気づかれてはいなさそうだった。高校生の時から同じ学校に通っていた史浩が心配気に言う。
 医学部のラウンジにいたところ、心配なのを隠そうともせずに話しかけ、外に出て話そうと言ってきた。

「ちょっと聞きにくいんだけど、涼介って親しい先輩がいたよな」
「……ああ」
「ガンメタのBNR32に乗ってる北条って、その人だよな?」
「そうだけど」

 邪気のない史浩が、こうも直球に話を聞いてくるのは、かなり心配をしているということだ。

「その婚約者が自殺したのは、涼介、おまえが原因だって本当なのか?」
「ああ……――――――そうだ」

 だから少しの余韻はあったが、はっきりと返事をした。全く、否定しようがない史浩らしい物言いだったから。

「……なんで……」
「……それはオレが聞きたいくらい、なんだ」

 一体何が原因で。遺書なんてなかった。そのかわりなのか、最期の通話は自分とだった。



「医者の卵なのに、仲良くしてた先輩の婚約者を奪って自殺させたらしいよ」と。

 まことしやかに流れる噂は、それまで自身になにかとアプローチをしてきた女性や、ライバル心なのか、なにかと張り合おうとしてくる男性などを遠ざけたり、逆にしたり顔で近づいて来させるなど。
 自身の周囲に変化をもたらせた。
 中でもその噂をどう捉えたのか、自分なら理解できます! と、言葉は悪いがこれ幸いにと相談に乗るよ! と、いうような男女はどこか厄介さを感じた。ありがたい申し出だろうし、人助けをしたいのかもしれない。単に気がいいだけなのかもしれない。ただ、感じたのは「その申し出を断られることなど、毛頭思ってもない」ようなところがあったのだ。
 何某かの正義や親切に基づいた、正当性をぶつけてくる。中には、刺激剤のつもりか逆張りかなんなのか、辛辣な物言いでこちらの気を向かそうとする。そして、まじまじと見えたその表情はしてやったりというような、自信に溢れた笑顔、なのだ。
 人の心を、傷ついた心を更に痛めつけようとする、隙を突いて取り込もうとする、その顔は赤いイメージの人と同じ上目遣いの笑みだった

 まだまだ鮮明に記憶に残る、あの人と似たその表情から、余計に追われるような気になる。もっと贖罪を、もっと罪の意識を。
 背負え、抱えて自分自身に絶望し、見ようとするものからいっさいの光を遮断して堕ちていけ、と言わんばかりだと。
 その頃から黒いもの、服でも持ち物でも違和感に近いなにか、嫌悪か恐れか形容し難い気持ちになった。赤は身につけたり、身の回りにはほぼ使わない色なので避けようもあるが、黒のもの、ましてや服なんて他に合わせやすいから、パンツも何本か持っていたしジャケットもあったのに。着る、身につけるのを意識的にも無意識にも避けて、反対に慣れようとして意識して着るときもあったが、違和感は拭えなかった。
 不安になる色だ。そんなことそれまで感じたことはなかったのに。まだ足掻いているのに、決定打を下されるような、最後通牒を突きつけられるような、そんな気持ちにさせられる色になった。

 歩むべき医師の道も。夢への思いも。赤く血塗られて、黒がベッタリと染み付く。そして湧かない感情。まるで砂嵐の画面のように何も感じない、無味乾燥な日々が続いた。
 周囲には全く気取られはしていないだろうけど、そう感じるほどにはおそらくメンタルがやられていたんだと思う。


 暫くして、弁護士から知らされたことがあった。内容は、黒い滲みは更に増えたということ。どうやらどうにもならなくなった、彼女の父親は母親もろとも彼女と同じ道を歩んだということだ。会社は倒産、母親は精神を崩壊させ父親を責め続け罵倒し、会社経営においては北条家にももちろん、親戚中に頭を下げてもどうしようもなかったらしい。気の毒な父親に北条家は温情を示し、業務提携は継続させようとし、父親も社員の生活だけでもと必死に立て直そうとしたが、それも追いつかないほど追い詰められ疲弊していったと。
 その結末を聞いて、さらに自分が黒く滲んだ感じがした。そして、気の毒に思う以外に冷めた感情しかない自分は、自嘲なのか簡単に予想できた結末に満足か? とも思う。時計の針は元には戻せない。全てを破壊する、こうなることが望みだったのかと。



 不義を働いた側が亡くなった。だからといって事が済んだ訳ではない。もちろん、一番大きいのは病院という人気商売が絡んだ案件だということ。へたにマスコミに知られると、もう取り返しが付かない事態となる。歴史のある資産家の北条家の嫡男とその婚約者、群馬の大きな病院、医者の家系である高橋家の嫡男が起こした死人が出たほどのスキャンダルなのだから。
 親も弁護士も奔走する中、自分は呑気に非合法の走り屋チームを作り、歓声を浴びて峠を走る。

 そんなこと、許されるはずもないのに、弟さえも引き連れてしていたのだ。
 
 生もあるが死も近い場にある医学部――――大学でも私生活でも、鉄臭い赤のイメージが纏わりつき、黒い死に囲まれ、身に黒い染みが侵食していく。そんな日常。

 親は。
 両親はいっそう自身への圧力を強めようとしていた。もっとも、そういう風に生まれついたし、そういう風に生きるはずだったから、当然の結果だろう。
 もういい加減落ち着いて、大人しく過ごせと言う。
 庶民が乗るような、物好きが乗るような。決して上品でない低レベルの人間が嬉々として改造して乗るような。そんなものにはもう乗るなと父親は懇々と自分に言う。横にいる母親も頷いている。
 あちらには伝えていないが、医学部の先輩で家も伝統があり、資産家であっても。元々そういう不埒な方面の遊びが好きで、おおかた金にモノを言わせて庶民を蹴散らして走るのが好きだったんだろう? と。
 
 プロになるわけでもないのに。

 そのスリルにおまえを誘い、その先輩の婚約者がおまえに心移りして浮気をした末の話だ。悪くは言いたくはないが、その婚約者も家同士との婚約であちらには不満があったのか、その腹いせでおまえに言い寄ったのだろう。まかり間違って、そんな女性がおまえの子でも妊娠して、こちらへ婚姻を乗り換えるなどあったとすれば、とてもじゃないが狭い世界での全面戦争になる。ある意味善きに転んだと思えばまだましなのかもしれない、と。
 だがこちらも少しでも関わっているから、それなりの態度を示さないといけない。それらは私や弁護士が始末をつけるが。
 おまえは粛々と過ごしなさい。あんな車さえなければ、もうおまえも道を踏み外すこともないだろう、と。
 ゆえに親は。今回のことで、自身が何より愛していた愛機の処分を決定したのだった。なんなら新しい外国車を買い与えてもいいが、決してそっち方面へ動かないようなものをと。
 大きな広い、吹き抜けのリビングで。話された内容は全く持って正論だった。


 そうなるのだろうな、と予想していた。親からすれば弟の破天荒な遊びを抑えたゆえに許されたクルマの遊び。暴走するのは街中ではなく、山の中で夜間であること。抑えつけすぎてもよくないということで
期間限定で許されたようなものだ。だから、このような、家も病院も揺るがす事態に、当然そういう判断を下すだろうと思っていた。

 最後になるかもしれない。そう思った自分はある場所へとFC3Sを走らせた。いるかもわからない、いなかったらどうする、そんなことなど考える余地も持たずに夜の国道を走った。追い求め、縋るようにハンドリングしていくと空虚だった感情が少しの悦びを感じた。
 葬られるための黒、あれなら相応だ。そう思うと笑みが出る。震え、乱れる呼吸の中、たくさんのコーナーを回って開けた先に見えたあの光景は――――――おそらく一生忘れない。
 真っ暗な山と空、灰色の雲がちぎれ飛ぶのを背景に、明智平パノラマレストハウスが切り出した崖の先に建っていた。

 夢の中にいるような感覚で――――――彼女が口にした赤い毒を吐く。黒を纏う目の前の男をその気にさせるために。あからさまに弱点を突いて挑発し、望むようにことを運ぶ。この地を統べる皇帝の冷静な顔は、歪んだプライドが紡ぎ出す言葉を静かに聞いていた。

 最期の咆哮を――――――FCは橋の手前で上げた。これ以上行けば二台もろとも、なのにまるで受け止めるように黒が引いたのだ。京一ならそうする――――――それを計算していたのか、それともそんな小賢しい算段など吹っ飛ばすほどの激情か――――――無謀に死に向かう自分を受け止めて欲しいと思ったのか、自分でもわからないまま。ただ――――――白のFCと黒のエボVを並べて停めた中禅寺湖で、自分を追い続けてくれるようにと。須藤京一の走りへのプライドに爪痕を残した。



 自力で運転できますよ、と言ったのに親はキャリーカーを頼んでいた。この顛末を知ったら大騒ぎをするだろう啓介のいない間に、自分が何よりも愛したFC3Sは、その姿を日が傾く彼方へと消した。

「アニキ、FCは松本のとこか?」

 何日もFCがないことを啓介が訝しむ。事実を告げたらどんな顔どころか、家ごと破壊されるかもしれない暴挙に出るかもしれない。全てを話す、それも考えたがやはり根本的には兄想いの弟に話したくはない。ようやく、諸々が弁護士とも話し合いに応じるようになったのに、事を荒立てたくはないのも大きい。

「ああ。ちょっと、しつこい部分の修理と改造でな。注文しても部品がなくて、本社に運んでもらって今いろんなところに当たってもらってる」
「そうなのか。まあ、そりゃ仕方ないよなー」

 いつまでもこんな嘘をつくのか。いくら啓介であっても通じるわけがないのに。そう言うしか手がない、バカさ加減に自嘲する。

 そして凍てつく冬は自分達、FRの足を止めた。その頃にはもうFCがいなくなって数ヶ月が経っていた。

「アニキ! マジでFCどうなってんだよ! いい加減遅すぎじゃねーの?」

 啓介のさらなる追求に自身はさらに嘘を練り込んだ。真実を少し混ぜて、親に派手なクルマを乗るのを止められた、親が新しいクルマを探している途中だ、FCはもちろん大事なクルマなので親の気が済むまで預かってもらってる、そんなに心配することじゃない、等々。
 そもそも、クルマの趣味に大金をかけて貰っているのもあって、親の意向に逆らうのは今後の活動においてもよくないなど。啓介が両親に食ってかからないように予防線を張った。
 そして、冬場なのが幸いした。FRの多いチームはろくに活動できないし、所要なら親のベンツやレンタカーでどうにでもなった。


 ただ―――――時が過ぎた。裏ではたくさんの揉め事、雑用があったらしい。親は自身に詳細を告げなかった。ほんの少し、事態はどうなったかの報告のみで、かなりの大金が動いたのはわかった。
 これでオレは更に動けなくなった。
 夢? これ以上親にも世間にも迷惑をかけて生きる? 男には夢が必要だって? 誰もあのFCがオレの夢だなんて気づいてもいなかったのに? 夜の暴走、公道へ最速を刻むことがせめてもの夢だなんて誰も気づかなかったのに? 
 結果的に唯一のオレの自由であり、翼であり、夢の象徴であったFCも手放さなければならなくなったのに? このスキャンダルが表に出れば夢どころか、医師の道も危ういのに? それどころか医師の道も、夢も血塗られたのに? 少し考えたらわかることだ。結果的にそうなるのは必然で、それが望みだったのかと。

 そして年度が変わる頃、一本の電話を貰った。

「俺だ、涼介」
「……京一、か……久しぶり、だな……」
「少し話したい、開いてる日はあるか?」
「……ああ、なんなら今からでもいい」
「今? ああ……そうだな。今どこだ?」
「大学を出て……駅に向かっている」
「迎えに行く。どこかで時間を潰せ」

 この何気ない通話が、なぜか心に染みたんだ。


 駅のそばのカフェで時間を潰す。何か腹に入れていたほうがいいかなと、サンドイッチを頼もうかと思いメニューを見ていた。アイツも何か食べるのか、それとも別に食事に行くのかとつらつらと考えていた。大学の、医学部の連中が窓の向こうを通り過ぎて行く。こんなところでアイツと会ってるのを誰かに見られたら、また何かを言われるのかもしれない。もう既に自分の影での呼び名は皮肉なことに死神だ。事件後行方不明になったあと、どうやら箱根に出没してるらしいと伝え聞いた先輩の呼び名もそうだった。確かに、自身は一つの家庭を死に導き、一人を破滅させ死神にさせた。

 白い彗星など、聞いて呆れる。死の黒にべったりと塗られた汚れた彗星だ。いやーーーーーー翼ももがれ、走ることーーーーーー闇空を飛翔することもできやしない。

 いろは坂では心中まがいに突っ込んで、あの黒もろとも炎になるかもしれなかったのだから。
 京一からすれば迷惑な話だ。走りへの考えの相違はあるとはいえ、いきなり本拠地のいろはに乗り込まれ、八つ当たりまがいの殺されそうなバトルをしたのだから。
 ただーーーーーー決して、京一もろとも身を儚ぶつもりではーーーーーーなかったとは、思うのだが。FCを失くす―――――最後にまっとうな、本気の綺麗なバトルをしたかった。血生臭い、赤いイメージを振り切り、己に染み付く死の黒を浄化したかったのだ。

 そこでオレはふと、何かに気づいたような感覚になった。

「黒……そうだ、エボVも黒だった。なのに……」

 厭うような違和感や、生理的な拒否感がなく、反対に懐かしい――――――とも思えたのはどうしてだろう。黒は葬り去る色なのに、浄化――――――それに近いような感覚になったのはなぜだろう。

「涼介」

 考え事をしていた自分の前に、白いバンダナを巻いた大柄な軍人のような男――――――いろはでのバトルを経て、数ヶ月ぶりに会う須藤京一が立っていた。


[2]へ続く


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