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Affair instead その代わりに [1]



 気づいたのはあの時だった。

 自分はおそらくそうであると。涼介は昔から思っていた。自分は興味が広範囲に及ぶタイプではなくて、どうやら対外的には人当たりもあって器用そうに見えるが実はそうではない。
 だから、こなすべき日常的なもの、そこには幼き頃から優秀であった勉学も含むがそれは義務のようなもので。そつなくこなすその姿、その成果を見れば人は自分を素晴らしく器用だと思うだろう。
 だが、それは全てにおいて、ではないのだ。
 涼介自身がその飽くなく好奇心を満たせる、生来の研究家肌を発揮できる車と走り。それ以外は、はっきりと言えばおざなりにしてきたことだった。
 生理的な欲求はあった。そういったものをデジタルデバイスで探ったこともあった。
 ただ、あからさまで激しい、あられもないそういった事柄は、涼介自身に興奮よりも躊躇を招いた。ただ、セクシュアルな画像や動画の類の、人とは違う部分に目を奪われたかもしれない。
 そして、人とは違うと言ってもいいものかと。涼介はずっと悩んでいた。


「申し訳ない」
「いいんです、高橋君に気持ちを伝えることができただけで。勇気出せてよかった……!」

 群馬大学内のキャンパス。食堂の裏から駐車場へ向かう道を歩いていると呼び止められたのだ。見知らぬ女性の、震えるような、でもはっきりと高い声音で涼介の名を呼んだのだ。
 色で例えれば淡く、どぎつくはない撫子色。可憐、だと思う。細いチェーンのネックレスに小さな花の形のトップ。鎖骨まで伸ばした艶のある髪、その鎖骨は頼りなげで繊細そうだった。相当に緊張しているのだろう。揺れる髪の間、胸元にほっそりとした手が重ねられていた。跳ね上がる鼓動を抑えるように、自分を勇気づけるように添えられた健気な手だ。
 震える桜色の小さな唇、おずおずと伏せられた長いまつ毛も、潤んだ小動物のような瞳も。いたいけに見え、そしてその痛々しさに涼介の目を細めさせる。

「……」
「……あ、時間を取らせてしまってごめんなさい! ……ありがとう、高橋君……っ」

 身を翻して、柔らかく儚げな香りと涙を散らしながらその女性は佇む涼介から走り去った。そういった光景は過去にも何度もある。いわゆる告白というものであった。

「……高校は男子校だったが、他校とかあったか……」

 中学の頃もそして今の大学も。涼介はやはりそのスペックからか、遠巻きに憧れられるというのが多かった。近寄りがたいという雰囲気もある。そのあたりは自分でもわかっていて、人当たりをよくしようと努力はしていても、普通に微笑むだけで相手が見惚れてしまうのだから仕方がない。そして、涼介が接してきた女性達はほぼこういった反応をした。
 孤高の超美形、首席の麗人。実家も大金持ちのハイパーイケメン。
 もちろん、そのスペックに惹きつけられ、峠や他で出会う、身の程を知らない女性が肉弾戦を仕掛けようと馴れ馴れしく寄ってくることはあっても。
 この群大医学部のある昭和キャンパスどころか、他キャンパスにも名を轟かせる稀代の王子に誰がズケズケと接することができようか。余程の自信がないと無理な話で、特にこの群馬大学医学部は偏差値も高いゆえ、大学デビューをしてもどこかスレていない、恋愛慣れしてなさそうな若い娘が多かったのだ。端的に言えば純情である。
 故にか。涼介のあずかり知らぬところで、我らが王子様高橋涼介に抜け駆けなどしないようという不文律があるらしいのだ。

「周囲に謝り倒して、玉砕覚悟で告白、か」

 先ほどの女性は、別の学部の生徒だった。たまにすれ違った程度らしいが覚えてはいない。彼女も涼介のファンであったという。何らかの事情で大学を辞めるので、最後に告白をしたいと一大決心をしたと言っていた。

「……健気だな」

 悪い気はしない。反対に申し訳ない。そんな気持を汲んでやれない。なんのてらいもなく、純粋に勝負した彼女が眩しく見えた。

「幸せを祈るよ」

 自分には到底できない。できるはずもない。ただ、その潔さに感服するほど、自身は何も曝け出せずに胸にずっと抱えたままだった。


 夜も深くなって身を横たえる。
 ベッドのぎしりという音が照明を落とした部屋にやけに響く。手元にあるスマートフォンの灯りは案外無神経に一画を照らす。
 しばらくはネットニュースの記事を視ていたのだ。もちろん、ブルーライトをカットしたフィルター越しだ。でないと、目をやられてしまう。啓介など、煌々と明るい液晶を平気で視ているのだから気が知れない。

「アイツは目が強いのかもな」

 ぼそりと呟きながら、眺めていた記事の片隅の広告に目が留まる。

「……」

 それは普通の。海外の男性モデルを使ったファッションサイトの広告だった。しっかりとした体つきの短髪の男性が、陰影の濃い洒落た写真に映り、太い右腕も露わに自分の左肩を掴んだポーズをしていた。

「……」

 自分にはない部分だ。いや実質、自分にも人間の男の右腕は存在している。そうじゃないのだ。この生命力あふれる、力強く逞しい腕。自分の、ほっそりとした筋肉のつきにくい腕とは全然違うのだ。
 かといって、今日の夕方に告白された、あの女性とも全く違う。曲がりなりにも成人男性であって、あんな可憐な女性の腕とは完全に異なっている。

「……」

 涼介は目を細めるとスマートフォンをそっと操作した。



「……はあはあ……」

 握り込むようにしたティッシュの塊の中で、生温かいものがじわりと広がる。
 
「う……」

 力を込めれば余韻に敏感になった粘膜を刺激して声が出る。パジャマの中に入れた手は、浮かせた羽毛ブランケットの中で忙しなく動いてたのはさっきの事だ。

「……あ……はぁ」

 こういった事はそんなにしょっちゅうじゃなく、とはいっても全くしないわけでもなかった。モヤモヤとするのはするのだ。健康な若い男だから。

「……」

 ぱさっと。音をさせて握っていたスマートフォンをシーツの上に伏せた。さっきまで、激しい性行為の動画が音も極小で流れていたのだから。
 それは普通の海外の、大人の男女の性行為動画であった。これは普通のことだと自分を納得させる材料にはなった。
 だが。あられもなく気持よさげに喘ぐ美しい女性と、逞しい精悍な男性のそういう行為の自分は何を視て、何を感じていたのか。それ以上、自分自身を探ろうということはしないでいた。
 おそらく男性、女性どちらにもそうで。どちらにも魅せられている。その理由が、それ以上考えてはいけないことのように感じていたからだ。
 
「……ふ……」

 だけど、泣き笑いのような感情が湧き上がってくる。自嘲でもある。密かな手遊びは、いつも過分に罪悪感を背負っていた。



「だったら証明して見せて?」

 そう言われた。ホテルのバーで。ここは彼女の行きつけらしかった。言葉と同時にネイルをした指が上を指した。部屋を取って欲しいと暗に言っていた。
 その言葉をいう寸前に掴まれた腕。ぐにゃりと柔らかい腕と身体がしなだれかかった瞬間。

「……」

 涼介は硬直した。気づかれはしないだろうが、ほんの数秒。いっそう濃く鼻につくクリスチャンディオールの赤い催眠術の毒を表す香水の香り。そういえば、彼女がこの時飲んでいたカクテルの女王と言われるマンハッタンも赤い色だった。
 一瞬、未来が見えたように視界がブレた。鉄さびのように生臭い、ねっとりとした赤が広がるのが瞼の裏に浮かんだ。そして背筋を走る嫌な予感。

「……今日は送るから」
「私を守るんじゃないの?」
「……だから送ります」

 自分の言った言葉を返されて、不満げな彼女が唇を噛むのが見えた。そして納得したようで、何かを決心したような意味深な言葉を発した。

「わかったわ。今日は証明できないって受け取っておくわ涼介くん」

 まるで次は証明しろと言わんがばかりのニュアンスだった。

 思えばあれが悲劇に転がるきっかけだったのかもしれなかった。

 学部も学年も彼女とは違った。大人しい女性の多い大学内では華やかで派手で珍しく浮いた存在だったらしい。自身は全くその存在を知らなかった。突然、用事があるからとか連絡しろとのよくわからないメモを、食堂で渡されたのがきっかけだ。
 そしてすぐに「夢はなに?」という答えようのない質問を自分へと繰り返してきた。臆していく自身を横目に繰り返される詰問。答えられないと容赦なく断罪していく自身の未来、そして現在。
 次第に完全に主導権は彼女へと移っていく。そして突然の衝撃の告白。彼女はそれまで一切、おくびにも出さずに隠してきた婚約者の存在を告白した。
 そして、親の言いなりの人生を歩む涼介の弱点――――コンプレックスを刺激し続けてきた最大の効果を発揮するであろう、「自分もそうであった」という共感、同情、憐憫を引き出す算段。
 それはとても効果的だったように見えた。
 だが、涼介の言葉を言質に、その気にさせたと踏んだ彼女の目算は狂った。既成事実は成されず、涼介は自分の身体、そして性的嗜好をはっきりと自覚した機会となったのだから。
 彼女は自分の意志で次の段階へと動いた。涼介は、自分の身体、心、見ないようにしてきた身の内のそれらの存在をはっきりと理解した。

 くすぶり続けるものをどうにかしたくて、でも言えなかった。ただ、深夜、那須塩原の専用コースと言われる場所に忍び込んで見た、あの白と黒の車の熱い饗宴のように、自分も。
 そうなりたい、そうするにはあの――――――熟練の職人のようなどっしりとした走りに目が離せなくなって、あれこそが、と思った。
 速くなるだけならレコードを刻めばいい。なのになぜバトルに拘るのか。あの二台を見てからは絡み合い、凌ぎあう一塊の白熱にもなるバトルに痛いほど魅せられた。
 あれが欲しいと散々、他を当たっても同等クラスどころかろくなものがいなかった。
 北条凛――――――赤の香りを纏わせた夢を問う女性によって、自身がはからずとも加害者となり、幸福になるだろう未来を奪い地獄に堕とした、同じ大学の先輩にあたる人。自身に車の、走る喜びを教えてくれた、皮肉にも夢を与えてくれたある意味の恩人たる人間だった。
 だが、彼との走りも。恐ろしい速さで、腕を上げていく涼介にとっては物足りないものだった。
 何かがある。何かが足りない。相性なのか、信念なのか。腕、技術、経験、車もあるだろうがそれ以上に何か。
 それが欲しい。全てを曝け出せるような。全てを預けられるような。
 瞬間、何かを垣間見て、それまでずっと求めても叶わなかった感覚を得たい。
 もしそれを体験できれば、自分は生涯それを忘れないだろう。
 それは何も利益にもならない、ただの欲だ。
 誰にも言えない、理解できないだろう、自身を知る人からすればバカらしい、冗談だろ? と一蹴されるような泡沫のような「夢」だ。
 そしてそれは己の手で、己にひとときでも自由の翼を与えてくれるこのマシンで叶えたい。そして、……なぜ、”峠”なのか。プロになれない、なれるはずの腕を持っているのに。
 その強烈な飢餓を己が唯一輝くことができる「公道」、そして「峠」に求めたのか。

「公道……そこで終わるオレの、……それを叶えられる相手……」

 殺風景な部屋の中、ノートパソコンを操作する音だけが響く中、涼介の呟きがぼそりと混じった。


 慣れない匂いがする。なんでこんな遠くへ来たのだろうかと自分でも思う。
 滅多にない自由な時間が空いた休日の前日。電車を乗り継ぎ、夜に着いた駅から事前に調べていた街へと向かう。
 なんとなく、そこいらで買ったファッション眼鏡をかけた。髪型も普段の分け目のある前髪を下ろした。できればマスクに帽子も欲しいところだ。変装したいというか、内密にしたい行動を取るからか。普段の自分を隠したい。そして、自身が住む群馬ではこんな喧噪はありもしないゆえに、気おくれする。
 どこから湧いて来るのかと思うくらい人が多い。年齢は高齢者もちらほらいるが、様々な人々が楽しそうに歩いている。自分は迷い子のように、スマホを片手にゆっくりととある方向へと向かった。
 そこはネットで探した場所だった。あからさまでもなく、初心者でも大丈夫そうだと判断した。口コミも丹念に見た。だけど、本当はそこに行って何がしたいのか全くわからなかった。

「……だけどなにか」

 答えとまで言わない、何かヒントが出るかもしれない。誰かに会うとかそんなことも考えてはいなかった。
 たくさんの人ごみをすり抜ける。すれ違いざまにキャハハハと甲高く笑う女性の声が、まるで自分を嘲笑っているかのように感じた。



「いらっしゃい。おひとりで?」

 その店はいわゆるそういった店が集まる一画から少し離れたところにあった。洒落たファッションビルの三階にあるらしい。エントランスをくぐり、エレベーターで三階へ行くと開いたドアの前がその店だった。店名を確認し、重々しい木の扉を開いた。勇気を持って、思い切って開いたのだ。ムッと複雑な匂いがする。煙草の匂い、それも数種類。酒の匂いに、何らかの芳香、そして人々の匂い。音楽は、静かなジャズが流れている。そのジャズの音色の優しさが、緊張で唾を飲み込んだ涼介の胸に僅かに寄り添われた気がした。
 男性ばかり。カウンターに向かって座り、こちらに背を向けていた数人、ボックス席にいた何人かが振り返ったり、顔をあげたりしてこちらを見た。目を見張り、上から下まで眺められるのは慣れていても、なぜか見つめる視線にいつも含まれる女性たち特有の熱とは、少し違ったものを感じた。

「いいですか?」

 おずおずと言うと、ボックス席に座る客に酒を運んだウエイターがそばに来た。こちらへと言うと涼介をカウンター席に案内した。

「どうぞ。ゆっくりしてくださいね」

 マホガニーでできたカウンターの中にいたウエイター、この店のマスターがメニューを差し出しながらにっこりと笑う。涼介は椅子に座ると手渡されたメニューを眺め、気まずそうに口を開いた。

「あまり詳しくないのですが……」

 それを聞いたマスターと、席を二つほど離れたところに座っていた男が振り向いた。

「お酒に慣れていない、ですか。では……」

 マスターがう〜んと顎に指を当てて涼介を見つめる。眼鏡をかけて、サマーセーターにチノパンというラフなかっこうだが、夜の新宿二丁目の外れにあるクラシックなバーには少し不似合いな清廉な感じが漂うのであった。

「優等生っぽい、って言ったら怒るか?」
「……は」

 カウンターに座る、一見ラテン系の外国人のようにガタイのいい黒髪の男から、低いからかうような声が飛んできた。

「そうですねえ……これなんかどうでしょう?」

 マスターが指さしたカクテルは「モヒート」だった。

「度数はきつい、ですか?」
「いえ」

 アルコール度数があまり高いのは遠慮したいと涼介は言った。すると、離れた席に座っていた男が立ち上がり、涼介の横に座った。
 
「きつくない……さっぱりするぜ」
「……」

 改めて、その男を見た。背が自身より高く、がっしりとしているせいか、かなり大きく見える。短く刈り込んだ短髪、ラテン風の暗闇でも彫が深いとわかる外見、そして笑みを含んだ黒い瞳。深いエンジ色の開襟シャツに、その張り詰めた筋肉を十分に感じさせる黒のパンツ。いわゆる―――――とても、魅力的な男だった。

「嫌か?」

 俺が横に座るのは? と男は言った。涼介はちょっと臆したが、首を振った。



「そうか。で、それはお前の好みにあったか?」

 カランと音をさせて、涼介が飲み干したモヒートを男が指さした。涼介は少し赤い顔をしながらこくんと頷く。

「美味しいな……すっきりする」
「ラムベースにライム、炭酸で割った喉が渇いた時にはうってつけのカクテルだ」
「……緊張してらしたので、喉が乾いているだろうかと。お口に合って良かったです」

 男の説明にほっとしたマスターの言葉が続く。

「そして喉だけじゃなく、心の渇きを潤して欲しいってカクテルだからな」
「……」
「……そうですね。気障でしたか。もう一杯、いや他がいいですか?」
「そうだな……あ、これは知っている、スクリュードライバー。これをいただこう」
「わかりました」

 涼介がメニューを指さし、オレンジ色のカクテルを注文した。

「それもさっぱりするぜ。ウォッカとオレンジジュースだ。意味は……おまえほどの綺麗な奴になら俺も言われたい言葉だな」
「なんですか?」

 マスターが氷を入れたタンブラーにウォッカを注いでる音がする中、男は涼介に意味深に言った。

「貴方に心を奪われた……だ」
「……気障ですね」
「言うな、おまえ」

 涼介の返しに男が肩を竦めて笑う。

「……別の異名もありますよ、どうぞ」
「ありがとうございます。……美味しい……えっと、異名とは?」
「するすると飲みやすい、女性がつい飲み過ぎてしまって……」

 マスターは悪戯めいた目で笑う。

「女殺し、だ」

 まるで未来を暗示するかのような言葉を男は楽し気に囁いた。


 たわいもない、話をした。聞かれたのは年齢と、そっちの趣味があるかどうかだった。それ以外の誰のプライベートにも触れない話術は、さすがだと思った。

「……わからないんです」

 だから答えたのかもしれない。そしてそれを望んで、ここに来たのかもしれない。

「自分がこっち側ってことがか?」

 男の低く、優しい声に頷く。

「おまえ、そのとんでもなく整ったツラ、清潔感のある見てくれ。女にはめちゃくちゃモテるだろうが」

 顎をしゃくって男は涼介に笑いかける。男もかなり整った顔貌なのに。

「モテる……そうですね。でも、何故か遠巻きに憧れられるか、いきなり不躾に迫られるかなんです」

 眼鏡をすっと持ち上げから、涼介は最近、大学を辞めるからと思い切って告白をしてきた女性、そして、それ以外の顔も思い出せない女性を思い出していた。

「ふん……そのツラに物腰、女を幸せにしそうな王子様って感じだからな……カクテルとは正反対……いや、ある意味あっているか」

 男は口端を歪めて笑う。
 それを見ていた涼介がふと気が付き、男の手元にあった煙草を指さした。

「どうぞ、お気遣いなく」
「ん? ああ……悪いな。では遠慮なく」

 男は片眉を上げると慣れた手付きで煙草を口にくわえ、繊細な細工が刻まれたシルバーのZIPPOに軽快な音をさせて着火し、煙草に火を移した。骨ばった、だけど包容力のありそうな大きな手。

「……」

 涼介はじっとその動作を見ていた。僅かに目を開いたまま。

「ふん……で、女にモテても仕方がないと?」
「あ、……まあ、そうですね。ちゃんと言ってくれる人には申し訳ないですし、その……」
「身体を使って来られても困る、か」

 涼介はぐにゃりとした腕で自分に触れた赤い香りの女性を思い出した。なんで、なぜ。何度も会ってあんなことを言われ続けたんだろう。

「……勃ちもしねぇのか?」

 あからさまな男の言葉に、自分への疑問で頭をいっぱいにしていた涼介がはっとした。

「……どころか……だけど」
「……そうか」

 少し気の毒そうに男は涼介を見つめる。涼介は先に浮かんだ疑問の答えをうっすらと掴み始めていた。

「なのにそれを隠して対応してたってことか? それはおまえがその女に人間的な興味を持った、そこに性的な意味は無かったで合ってるか?」

 涼介の目が見開く。男は少し首を傾げた。

「……それが恋ならば、何も問題はなかった。だけど……」

 数多くの好意があると示してきた女性、告白してきた女性。特に大学を辞めるからと一大決心をして告白してきた女性とは違った。最初からそういった恋愛的な態度や憧憬を匂わさずに、ある種堂々と先輩風を吹かして近づいてきた。ただ、異様に人の目を気にはしていた。そして彼女の繰り返す禅問答、詰問は自分の生活、人生、未来にまで及んだ。
 大人が少年を見るような態度だった。そして口癖は
――――――涼介くん、キミって
 会えば必ず、自分を癒すどころか、世に言うマウント取りをする人。
 出会ってすぐに人の人生を一刀両断に評価する人。そこまで自由奔放に振舞える人は初めてだった。

 傷を抉られるために会っていたのか? 
 いや――――あっさりと。楽し気に自身を断罪する人はどんな人生を歩むのかと。
 そこまで思考が進んで、薄ら暗いなにかに引き込まれそうな感覚になった。
 
「……ずっと自分は……」

 男なのに男に惚れた。それを認めたくなくて、でも惹かれた。車への走りへの、モータースポーツへの夢も憧れも、自身の性的嗜好さえ。全部、自分の手から滑り落ち、欲望を口にすることなく誤魔化し、流し、言い訳さえ飲み込みながら人生を終える。

「な? 場所を変えねぇか?」

 男は考えこんでいるような涼介の、膝上に置かれたぎゅっと握った手を見つめて言った。
 涼介ははっとし、何度かまばたきをして男を見つめ、

「……そうですね……」

と言った。


「おっと、……足に来たか?」

 店を出てエレベーターの中でも。男は涼介が警戒するほどの距離を取らなかった。不快にならない距離で、それでもエレベーターが降りてからの段差に少しふらついたのを、すっと手を涼介の腰にやって支えた。

「すまない。……やはり酔ったかな」

 前髪を揺らし、涼介は男が自身の腰に触れたことが不快でないのを感じていた。

「掴まるか? 嫌でないなら」

 男が手を差し出す。涼介は微笑んで首を振った。

「笑ったな。いい顔だ」

 まるで自然に離れていく手を伏し目がちに涼介は見ていた。



 少し歩いたあと、男は涼介にひとつの提案をした。

「とにかく何か腹に入れろ。ああ……この裏に美味い小料理屋があるが」

 男は、涼介がさっきのバーで酒を飲んだ以外、何も口にしていないと聞いて呆れたように言った。

「いや……あまり人のいるところに行きたくない」
「そうか……」

 男と二人路地裏を歩いても、周囲では酔った人々や楽しそうに声を上げる人がひっきりなしに行き交う。主に男性が多いのは、この街の特徴である。

「折詰にしてもらって、どこか……落ち着けるところで食うか?」
「……」
「……妙な提案だと自分でも思うが」
「……」
「公園もあるにはあるが……このあたりのはハッテン場なんだよ……まあ俺といれば変に絡まれたりはしねぇだろうが、そこいらでやらかしてるのに食う気も失せるだろ?」

 男は頼りなげに佇む涼介を前に困ったように頭を掻いた。その時に上げた片腕が、シャツの上からでも鍛え上げられた見事な筋肉を纏っているのが、夜の妖しげな照明の中涼介の目に入った。

「……オレはどこか部屋を取ろうと思っていた」

 涼介は自身もここいらでホテルを取ろうと思っていたところだった。

「知ってるところ、あるのか?」

 男の言葉に涼介は何の気なしに言った。

「いや……でも、ヒルトンかハイアットでもと……」

 男は呆れたように肩を竦めた。

「思ったとおり、見てくれどおりのお坊ちゃんか」
「……」
「自分の性癖に悩んでここに来た。そうだな?」

 男は黙って立ったままの涼介の顔を覗き込むように見て笑う。

「そうだ。オレがどうなのか、オレは知りたいんだ」

 思い切ったように涼介は顔を上げ、はっきりと自分の欲望を口にした。
 男は涼介のその態度に、一瞬目を見開いたがすぐに優し気な笑みになり、

「……わかった。悪いようにはしない。じゃあとりあえず、折詰を貰ってこの近くにある俺の知ってるコンドミニアム型のステイホテルに行こうか」

勢いをつけて話しをし、少し肩が上っていた涼介の背を落ち着くように軽く叩いた。


 電話で注文した折詰を取りに、男と涼介はゆっくりと喧噪の中を歩いた。たわいもない、涼介の気がまぎれるような軽口を交わしながら。
 そして京都の町屋のような落ち着いた店に着くと、注文していた折詰を受け取りまた歩き出す。わざわざ、店の前に店主が品物を持って待っていたのが気になった。

「知り合いの店なんだ。結構古くからのな」

 店主はやたらに深々とお辞儀をしていた。いい客なのだろうと思った。

「さ、着いたぜ。ここだ」

 一見、普通の。けっこう洒落たシティホテルに見える。

「ビジネスとか、長期滞在用なんだ。住んでる奴もいる。おもに外国人だが」

 恭しくフロントが挨拶する。カウンターで一言話しただけで、男はキーを貰った。



「さ、食おうぜ」

 このコンドミニアムタイプの、キッチンもバーカウンターもあるリゾートマンションのようなホテルをよく知っているように男は動いた。持ってきた小料理屋の折詰を広げ、キッチンで茶の用意をしている。
 涼介は椅子に座りながら、男が湯気を立てたお茶を持ってきたのに礼を述べた。

「……美味しい……」

 口にした煮物に感嘆の声を上げる。色とりどりの品のいい料理は、とても優しい味だった。

「京都の日本料理やってた人が出してる店なんでな。味は京都のまんまだ、美味いだろ?」
「……ろくに食べてなかったからこういうのはありがたい」
「そりゃ良かった。美味そうに食べてもらえるとこちらも嬉しいぜ」

 涼介は男と視線を合わすと、目を和らげて微笑んだ。
 

 ひとしきり食事をし、温かいお茶を飲んだあと、男は酒を飲むか涼介に聞いた。

「軽いもの……なら」

 男は頷くとミニバーで酒を作り始めた。

「ここにあるもので悪いけどな」
「じゅうぶんだ。ありがとう」
「さ、話しを聞こうか」

 渡されたグラスを手に涼介は伏し目がちになった。



「なるほど……。では単刀直入に聞くが」
「……」
「おまえ、マスをかくときはどうしてたんだ?」
「……マス……マスターベーション、自慰、オナニーですよね」
「……そうだが、真面目な話をしようとしてるのに笑わすな」

 律儀に答えた涼介に男は肩を揺らして笑った。

「……」
「いや、いい。質問に答えてくれ」

 涼介は照れか、酔いのせいか瞼のふちをほんのりと赤くしながら話し出した。

「その……そういったものはたいてい普通のポルノで、おもに海外の男女のもので……」
「ほう……洋物好きか、俺もだぜ」
「なぜ海外のものかは……生々しくないからだと思う」
「なるほど。男も女もスタイルや体のいい奴が多いからな。だが、ゲイものは?」

 気まずそうに涼介は言った。

「……見ましたが……マッチョとマッチョが多いのと、なんだか自分の望んだ行為もこうなのかと思ったら全然見る気にならなくて……」
「で、女相手してる男を見てるってわけか? 女の体にゃ興味は湧かねぇのか?」
「そこなんですが……実際に性的なものを感じるのはそうやって女に興奮して性行動をしてる男に対してな気がします」

 はーっと呆れたような深い溜息を出して男はソファに座り直した。

「……確かにゲイの中にはストレートのポルノを見て男優が懸命にケツ振ってるのがかわいいとかいう奴はいるぜ? だが多いのは女の身体なんて見たくもねぇって連中ばかりだからな」
「……」
「単純にノンケの男が好みだって奴もいるしなあ。そういうのとは違うんだろ?」

 涼介はわからないというように首を振った。

「じゃあ聞くが……俺は好みか?」
「……え……」

 涼介は男の言葉に目を見開いて固まった。

「俺もな、けっこう人に見られるのは慣れてるからな、そいつが俺のどこに気に入ってるとかわかるんだよ」
「……」
「俺の身体、好みみたいだな」
「……」
「だったら嗜好に男はある。……異論はないな?」

 男の少々強引な話しの進め方に涼介は少し焦るような気がしてきた。

「女の、乳やら尻やら見てはどうなんだ?」
「目は行くが……造形的に美しいと思う」
「ほう?」
「というより、女性は男性に愛されるようにできているんだな……と。子供が大人の庇護欲をくすぐる造形をしているように……」

 ぽつりぽつりと涼介は語り出した。

「そして男性も、そういった女性を愛するようにできているのかと……」
「理屈っぽいな」

 涼介は少しむっとした顔をして男を睨んだ。

「女の肌に触れたい、揉みたい。男の身体に触れたい、握ってみたい。どれだ?」
「……女は」
「触られて鳥肌立ったんだよな。……最近、よく会う女に」
「……」
「なんで会ってたかわからないんだろ?」
「……」

 涼介は結露がたくさんついたグラスをぎゅっと握った。

「オレは……許せないんだと……」
「……否定されたからか」
「……そんな人間が、オレの……叶うことすらできない恋の対象になりえる現実が……」
「……」
「オレがどれだけ求めても……」

 恋も。車もそうだ。たやすく通り過ぎて、他人の手に渡る。それをいつもわかったような顔をして見送らねばならないのだ。誰よりも想い、誰よりも速いのに。
 さらにそれをよくも知らないのに簡単に「不幸」だとで切り捨てられた。

「悔しくてたまらない……」

 ボタボタと。グラスと握った手に落ちる水滴。男は軽い溜息をつくと、涼介の座るソファへと移動をした。ぼうっとしながら涙を流す涼介の隣へと座り、その手からグラスを取り上げてテーブルに静かに置くと、こわばる肩に腕を回した。

「……なるほどな。おまえは男に抱かれたい。そして男に抱かれるのが当然の存在である女っていう生き物を自分が成り得ないものとして見ていたんだ」
「……」
「はっきり言えば、おまえの好みの男――――俺みたいなタイプ、そして女。おまえにはない部分だ」
「……」

 涼介は信じられないという顔をして男を見た。自分にはない。逞しい男の身体も、女性の身体も、そして――――――あれほど残酷に振舞えることも。

「わかるか? おまえはこっち側で正解だ」
「……」
「俺に、こうやって触れられても大丈夫だろう?」
「性的なことは苦手だった。幼い頃からこんな外見で、男にも女にもいろいろあったから。未遂ではあっても性的なものは強い禁忌だったんだ」
「……」
「だから――――あの男に惹かれるこの気持はなんなんだろうと、そして女に触れられたあの時、誘われたあの時、身が竦んだのはなんでなのか」
「……でも、今俺に触れられておまえは嫌そうじゃないぜ?」

 涼介の顔の間近に、男は顔を寄せて宥めるように肩をぽんぽんと軽く叩いて宥める。

「……」
「惚れた男がいるんだな……。俺に似たタイプの……」
「……そうだ……背丈とか体つき、それ以外もどこか……似てる気がする……」

 涼介は切なげに眉根を寄せた。そして、かけていた眼鏡を置くとふり絞るように呟いた。

「……近い将来、必ず捨てなければいけない夢を、一瞬でも共に見ることができる男なんだ」
「そうか……」

 男は溜息をついた。そして涼介の肩を抱いていた大きな手を、宥めるように動かした。

「そいつはノンケ、ストレートなんだな」
「……おそらく」

 男は優しく涼介の顎下に指をかけ、上を向かせた。

「……凄まじい美形だな。おまえほどの美形なら……でもこればっかりはわかんねぇからな」

 腰を浮かしてハンカチを取り出すと、そっと涼介の頬に流れる涙を男は拭った。

「……わかっている……」
「ろくに経験もないんだな。抱いてやってもいいぜ?」

 男は片眉を上げて微笑んだ。涼介は顔を上げると口を尖らせ、

「悪いようにはしないと言ったぞ」

と言って男を笑わせた。


to be continue 2022/03/07
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