To Mobile [6]
ごとんごとん、日の光が煌めく車内、涼介はイヤホンを片耳に車窓を見ながらつぶやいていた。人もまばらな車内からは、美しい緑の山とそこを切り拓いたような新興の街が見えている。人工のモノがそれほど目に入らないうちは、どこか遠くの場所に来たかのような、ちょっとした旅行気分にもなれた。
「……電車も気楽は気楽だな。ぼーっとできるし」
涼介は小さく呟く。
『そうか。楽しそうで何よりだが、もうすぐ着くぞ。降り口は右側だ』
ああ、と返事をすると景色はモノクロに変わり、涼介の乗っている電車は固く大きな建物の中に厳かに飲み込まれる。ぱらぱらと人が立ちあがり、駅構内がその緩まっていく速度と共に目にしっかりと入ってくる。立ち並ぶ看板、その中の文字を目にした涼介は少し息を止めた。
「……」
『どうした? 降りるぞ?』
躊躇したさままでわかるのだろうか。いやまさか、そんな。 だけどもそうでいて欲しい気持ちもある。
僅かながらまた引き戻される、もうとうに自分では済んでしまっていると思う事柄。
「ああ……降りる」
目に入った文字を掲げていた看板はもう後方であって、二度と見ようとも確かめようとも思わない。
ことに名前はどうしても直接的だ。涼介にとってはそれでも踏ん張っていた立位置を足元から崩した。
「つまらない人間」「殺したいくらい憎む人間」
と全くの容赦も憐憫も情愛もなく、突然に断罪した二人の名前。
「……」
輝いていた今日の旅行気分が一気に、番組が終わった深夜の砂嵐を流すテレビのような味気無さと残念さに変わった。
久々に楽しかった気持ちは鉛を飲み込みつっかえたかのようなものになってしまった。
「……改札、出て右だったかな……」
つぶやきが。そのトーンが伝わる。
さっきまでAIに相手をさせていたが、何となくこれは……と思った。
『どうした? 涼介』
道に迷ったわけではない。そのまま足取りも普段どおりに進んでいる。その歩みもスマートフォンは詳細なGPS機能で伝えている。
「……何が?KYO」
その声も普通なトーンのはずなのに。
『……ちょっとな。何かあったのかと思った』
伝わる。平日の午前中であるから、ラッシュアワーから時間が経った駅のうるささはそう酷いものではないが。
「ああ……見たくない字を見てしまったんだ。それだけ」
正直に伝えてしまう。
これが啓介相手なら涼介はまったくの労せず適当な嘘で誤魔化したろう。とても完璧に、啓介の特性を知り尽くしているがゆえにサラリとやってのけるだろう。
なのになぜ。口からボロリとこぼれてしまうのだろうか。
「嫌なこと、思い出してしまうんだ。嫌って言ったら……語弊があるというか、ちょっと悪い気もするが……」
駅改札をICカードを使って出る。
すぐさまエスカレーターを下りると大きなロータリーに出て、その青空の眩しさに目をやる。
まだ南中ではない太陽が空を濃紺のままに。雲は真白に千切れ飛び、光の粒子が世界中に飛び交うようだ。
ああ、そう言えば。
『……そうか。気が向けば詳しく話せ。聞いてやる』
その声、その言い方、そのリズム、その響き。
「……」
だからなのか、知っている声に似ているからか。
「うん……」
親の言う通りに勉強を頑張り続け、医学部を受験し首席になり、ヒトからすれば安穏としていたろう自身の生活は。
若さゆえもあって、幼き頃から好きだった車へと興味が向き、その世界を知った。
充実はしていた。勉学に趣味――――車にと忙しくしていた。ただその趣味は――――思った以上の面白みとそれまで抑圧し、我慢し続けていたものから本心解放されていく自分を知らしめた。
たかがちょっとしたスポーツカーで山の中の道を走るだけなのに、親も多少の息抜きで、勉学に支障がないならと黙認していた。
だが、現実との乖離は広がった―――――この、殊更好きな趣味であるこれを極めればどうなるのか。
いやどうにもならない。
極める素質は? はっきり言えば誰よりもある。
たった数年片手にも満たないどころか半分の年数で結果的に北関東のマイスターにまで上り詰めたのだから。
その世界に来ないか? との声はたくさんかかった。だがその声から背を向けた。
だがもっと見るがいい、もっと見ろと知らしめるように走り続けた。
何しろ自分でも抑えられなかった。
押し殺してきた承認欲求、自分自身を世間にさらけ出すこと、胸を張ってその場所に―――――――勝利の場所に立つこと。
決して影のように自分を隠し、すべての功績も何もかも譲って身を縮めていることはないのだ。黒子のように。
その場所は自身の愛機、白いFCと自身の場所だった。挙句すぐに一人だけになり、誰も追いつかない孤高にいたのが。
そこはもろくも崩れて下りて行かねばならないものだと思い知っていく。
本音を言えばあの世界に。
油と爆音、タイヤの千切れカス、排気ガス、ブレーキパッドの焦げる匂いが蔓延する空間。
品の良い人達が見れば眉をひそめて顔をそむけそうな世界。外見的イメージしか見ていない人には、自分には似合わないというだろうか。
だけども好きなのだ。高級車のボンネットを開けたこともないような乗り方ではなく、もっと。
孤高のエンジンに惹かれたのだ。まるで自分のようなマイナースピリッツの塊を。
夢に浸っていたかった。あのままずっと。何より速く走る、あの世界に自分だけ――――――いや、違う。
影がいた。影……ではない。闇の。闇の色をした並び立つもう一人―――――
『涼介。着いたぞ』
同じような声で名を呼ぶ。もう一人のあの世界の住人も、同じように深く低い声で優し気に自身の名を呼ぶ。
「……ああ」
現実世界は。夢を追えるはずもないのに夢を見る自身の、背中を突然斬りつけた。
その痕は。いまだにじくじくと痛み爛れて滴る。一瞬で。傷はあっさりと開いて溶けるのだ。
[7][企画2]