To Mobile [4]
家にいても。
例えば学校や教授など先生に呼ばれてや、他に携帯の電源を落としていない時も、涼介は意識するようになっていた。
ハンズフリー用の片耳イヤホンと小さなマイクもつけることもある。
何かあればぼそりと呟くと、すぐさま聴こえてくる声。それが日常となってきていた。
今もたわいもない話をしていた。
そして突然、電話を告げる音に会話は中断された。
今日も呼び出された、教授のお気に入りである自分は、ほとんど専用にしているような小部屋で本と資料を探すのに格闘していた。
すべての本や古いデータを収めているファイルを、パソコンですぐに呼び出せるように苦労したのもある。
ある程度そうしておかないと自分で自分の首を絞めてしまうのだ。そしてそのことが大いに評価され感謝され、機械音痴の教授はすぐに涼介を呼び出すのだ。
しばしして涼介は休憩がてら、買い込んでいたパンをかじり、紅茶のパックジュースを口にする。窓から見える風景は何も変わらない。変わるのは自分だけなんだろう。身体、肉体を時間は通り過ぎていき、老いを刻む。変わらないのはもうこの世にいない人間なんだろう。
「…………」
何もかも欲しいと。
だけどそのために傷つき、踏みつけにされる人への憐憫や情、呵責は一切なく、義理でさえも無視して自分への奉仕、援助への継続は当然と思っていた女性。
だからこその世の当然の反応、婚姻する予定での家同士、そして会社への力添えに援助。それは普通の婚約よりも周囲には大きな影響があり、動く金もけっこうなものだろう。
だが約束事であり、大前提としてあった婚姻を破棄をすると婚姻予定の関係であった家からの金銭的援助は無くなるのが道理ということ。さらには婚約破棄は一方的であったということ。
それらの上に他に恋愛関係になった異性がいるという、それは確実に有責事項で、それまでの援助費用を考えれば莫大であろう慰謝料を請求されるようなことは口を割らずに隠し通したという。
「……大したもんだ」
あの後、自身が医学生として、そして車の楽しみを教えてくれた、とても信頼していた先輩と警察署で会ってお互いの顔を見てその差がわかった。
悲劇と衝撃で顔色を無くすどころか、これほどの可哀想な人間の顔は見たことがないような気がした。対して自分は頭のどこかですべてを理解していた。
そうか、先輩の後輩であったからか。自分の情報や経歴など簡単に知って近づかれたんだ。いつも声をかけられる時は誰もいない時で人目を避けていたし、二人になった時も今思えば異常に人目を避けて大学から離れた場所に行きたがった。
自身の車は既にどれに乗っていたか当然に知っていたのも不可思議だったが、やたらに熱心に車に乗りたがり――――――それは決して車に興味があるというものではないのはすぐにわかったが。
そう言えばいろいろ言い訳していた。ストーカーらしき人にとか、嫉妬されやすいからとか。
違う。違ったんだ。
大嘘だった。
――――――その時にすべてわかった。噂になれば、確実に先輩の耳に届くから――――――あくまで秘密裡に自分と接するために――――――何故なら婚約していたから、バレれば有責となるから隠し通したのだ。
そんなことを考えていたのを一瞬でわかったんだろう。肩を掴まれ揺さぶり問われ、叫ばれていたのに、自分は合点がいったというような顔をしていたろう。
あれだけ傲慢に自由に。
自分勝手にふるまってなお良しだと。さらなる望んだハイクラスな生活実現に邁進しようとした彼女の、行先はこうだったのかと。
『なんでなんだぁあ――――――涼介ぇええええ――――――ッ!!!なんでお前なんだ――――――ッ……!!!!!』
最期の通話は自身とだった。
先輩の絶叫は語尾は掠れて裏返った。服を掴まれ無茶苦茶に叩かれ殴られた。そして崩れ落ちるそのあまりの悲壮な叫び、姿。
『涼介くんは女の子を幸せにする……』
「幸せか……」
何があっても貴女を守るよ―――――――その意味は。
自分がなりえない人間がそのまま修羅の道を歩み、落ちることを望んでいたからか。その目で見ないと満足しなかったからか。
「安堵。だったんだよ……単純に勧善懲悪は好きなんだ」
自嘲の中に嬉しそうな笑み。ギリギリのラインを得る感覚を、取り戻すことにも利用させてもらったと言えば聞こえは悪いか。
「騙されていたのは先輩だけじゃない……なのに殺されるかもしれなかったんだぜ……。仕方ないだろう?」
思考の中に問いかける。
自分を殺そうとした荒れた長髪の哀しい男を、命がけで救ったのはなぜか。
あの時、追走してきたあの車が咄嗟に力になってくれると踏んでいたが、まさか前に出て共にブレーキの役割をしてくれるとまでは思わなかった。
不可解なブレーキの故障。捨ててそのまま利用するはずだったのに、そのまま婚約破棄を受け入れるだけで良かったのに、自身を追い詰めた凜―――――死神への……。
そして軸がぶれてこちらも激突するしか手はないのかと総毛立った時に。
「……坊さんだしな……」
ゼロ――――――無が。
傲も邪も魔も欲も執も怒も悲もすべて。打ち消すのを見た。あがきのように香りが狂い舞った。そして停車した車の中で涙を流すあの人には真逆のことを言ったが。
「あ、忘れてた……」
ぼんやりと白昼夢のように思い出し、どこかに精神を飛ばしていたかのようだった涼介は、ポケットに入れていた携帯電話の電源を入れた。
「KIRIじゃないな。KYO、ちょっと啓介にメールを送っておいてくれ」
『はい。わかりました。内容はどのような?』
「今日は遅くなるって」
『了解。今送りました』
「仕事が早いな」
『どういたしまして。それより早く私の名前を覚えておいてください』
「……わかったよ。KYO。俺からも注文だ」
『なんでしょうか?』
「敬語はなんだかムズムズする。適当に砕けてくれ」
日差しは傾き、オレンジの色を帯びてきた。群馬医学部図書館の中、涼介はいつもいる小部屋で携帯を片手に話している。ヒト様OS(Operation System)の高度な、音声認識のバーチャルアシスタント、しかしそれだけではなく、AI、人工知能があるものと話す。
『……了解。適当に砕ければいいんだな』
だがしかしこれは……。涼介は動きを止めた。
『……砕けすぎか?』
片手で持っているスマートフォンから聴こえる声が
『涼介』
涼介の目を見張らせた。
「いや……不愉快なようなそうでないような……」
最初に聞いたとき、誰かに似ていると思ったその声。
『どっちなんだ? 気に入らないなら変えてもいいぞ』
話し方を変えたせいで余計に、まるでそのままに。あの男に似ている。
「……いや、変えなくていい」
その男は涼介の人生――――イケメンの優等生、実家はそうとうな金持ちでと、甘く美味しいところだけを舐めて生きてきたと言われるような、ある種のカリスマ扱いを。
「そのままでいい」
襟元から掴んで引き裂き、纏う重いものをはぎ取って素裸にさせた。
剥き出され、その目に。灰褐色のギラリと光るその目に晒された、あれは本当の真実の自分。誰かのために、恨みをぶつける男を助けるために走った姿ではない。
心から悦び、喘ぎ、掴み寄せる腕に抗って黒に追い追われ真白に走るFC3Sはそのものだった。
『そうか。気に入ったか……』
「…………」
指先で指の背で、頬をすぅっと撫でられたような感覚に涼介はふっと目を伏せた。
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[企画2]