「離れろ気持ち悪い。」

「あべしっ!」







女子に手を上げたのは初めてだった。
くれぐれも誤解はしないでほしいのだが、手を上げたとはいえ殴ったり蹴ったりしたわけではない。
そしてここが最重要だが、何の落ち度もない人間に危害を加えたわけでもない。
彼女には突き飛ばされるに足る然るべき理由があったのである。
どこの誰から見ても、ぐうの音も出ないほどに僕の行動が許される確固たる理由が。







抑えようにも抑えきれないため息が生徒会室に充満する。
完全に人選を間違った。
そうとしか言いようがない。
書類からペンを置いて一呼吸置いたが、繰り返し自らのデータ収集不足に嘆息する他なかった。
まさか、正面花壇の問題を解決するために声をかけたあの女生徒があそこまで異常だとは。
事前に名字名前に対してのリサーチをしっかりと行っておけばこのような事態は避けられたのだが、そこを怠った…いや、相手はE組の女子1人だと油断した僕が甘かった。
自身の覆しようのない失態に腹が立って仕方がないと共に、名字名前の意味不明加減にこの先の自分の行く末を案じて、内心で頭を抱える。




「とにかく好きです!」


何やらよくわからないことを早口にまくし立て始めた瞬間から嫌な予感はしていたが、まさか、その後に抱きついてくるとは予想の範疇を超えていた。
それに加えてあの「好きです!」発言。
未だにふわり、と舞った彼女の髪の色が網膜に焼きついて離れない。
くそ、と手を額にやった。
経験上、僕に好意を寄せている女子は扱いやすいと知っている。
しかし彼女は別だ、アホすぎる。
少しでも常識を持ち合わせた女子ならば、ただひたすら忠実に僕の指示を聞いて作業をこなし、時に二言三言話しかけてきて頬を染める、それで終い。
しかし、あそこまでアホの極みに到達していてはどんな行動を取るか予測ができない。
そして話に脈絡がない。
しかもその上、予想以上に頭が悪い。
突然こちらに抱きついてきた彼女を払い落とした後、何事も無かったふりをして花壇の話に原点回帰しようとしたところで発せられたのが「花壇……、が何だっけ?」である。
俄かには信じ難いが、名字はそれまでの話の概要をきれいさっぱり記憶から飛ばしていた。
一体、彼女の脳内でどのような思考が為されていたのかは僕には想像もつかないが、記憶力・状況把握力・理解力・判断力、すべてにおいて他人の数倍劣っているに違いない。






あそこまで異常な人間であると事前に知っていれば、何か別の手を打っていたーー、
そこまで考えて、再び漏れ出たため息。
いや、不可能だ。すでに花壇が枯れ始めている以上、考えている時間はない。
そして業者を呼ぶにも予算はなく、また学内であの花壇を手入れできるのは今は亡き園芸部の部長を務めることのできた名字のみ。
八方塞がりなど今までに経験したことは無かったが、もしやこれが世に言う「どうしようもない」状況なのかとひしひしと感じた。
チラリと時計に目をやれば、もう17時を回ろうとしている。
約束の時間だ、ここで後悔していても何の生産性もない。
重い腰を上げて生徒会室を出る。
ガチャン、閉まる際に響いた扉の音に名残惜しさを感じつつ、昇降口へと向かった。












「あっ、浅野くん!!」

「声が大きい、目立たないように注意しろって言っただろう。」

「ごめん、忘れてた……!」








E組の隔離校舎への分かれ道には、既に名字が待っていた。
僕の姿を確認すると同時に、飛び跳ねて手を大きく振った彼女にピシャリと叱咤するも、特に気にする素振りもない。
へらへらしながらと口元へ手をやって、指で×のようなマークを形作っている。
彼女とは今日の昼間、自販機の前で初めて会話を交わした仲であるが、早々に名字に対する遠慮は消え失せた。
未だへらへらしているその姿に、いっそ×印をマジックで書いたマスクでも装着させてやろうかと思考がよぎる。








「昼間、自販機の前でも言ったが……E組の連中には勘付かれてないだろうね?」

「それは大丈夫…!E組のみんなはとっくに帰ったから。」

「そう。何度でも言うけど、本校舎の花壇を手入れしていることは絶対に他言しないように。もちろん、E組の君の友人にも。」

「うん、気をつけるね!」







気をつけるね!とは言うが、果たして彼女がどのレベルで「気をつけられる」のかは不明である。
そしてこの注意事項を明日には忘却してしまっている可能性もなきにしもあらずなのだから信用はできまい。
やはり自分の決断は誤りだったのではないか、と自問した。
しかし、もはや名字の起用以上の代替案は思いつかない。
少々先行き不安ではあるが、致し方ない。
行くぞ、と彼女に一声かけて椚ヶ丘の駅前へ歩を進めた。










電車に揺られてやってきた、椚ヶ丘から5つほど離れた中小規模の駅。
その駅前の適当な喫茶店に名字を引っ張り込み、「なに?なにするの?デート?」とキョロキョロしている彼女を席に着かせる。
何がデートだ、この中間テスト前の時期にそんな事するわけないだろ。







「とりあえず、まず最初に言っておくがこれはデートじゃない。」

「うん…残念だなあ。デートじゃないんだ…。」

「いいかい?今から、正面花壇の維持作業について、生徒会から君への依頼を一通り説明する。」

「?それなら学校でやれば……」

「……だから、君が正面花壇の世話をすることは極秘だと言っただろう…」

「あっ、そっか……だからわざわざこんなに学校から離れた駅まで来たんだ。」








ここまで彼女に理解させるのに、どっと労力を使い果たした気がして倦怠感が僕を襲う。
さすがはE組のクズだ、と何も考えていなさそうな彼女を横目で見ながら改めて校内最底辺の程度を思い知った。
学校でもクラスメイトからよく質問を受けるせいか、人に何かを教えるという行為は得意だ。
しかしこのアホが相手では一筋縄ではいかないだろう。
普段はA組の比較的理解力の高い人間を相手にしてきたが、今回の相手はE組の馬鹿。(そして恐らくだが、こいつはE組の中でも底辺に位置している。)
これは、僕も根気よく説明を続けなければならないだろうな。
柄にもなく気合いを入れたところで、頼んでいた珈琲とキャラメルマキアートが届いた。







「まず、正面花壇の世話だが…早朝に行う。時刻は7時。7時45分には本校舎の生徒が登校してくるからそれまでには必ず終えるように。」

「分かった。」

「君も知っているだろうが…本来ならE組である君が本校舎に立ち入ることは許されない。その校則を破って、君は花壇の世話をするんだ。だからくれぐれも、周りにバレないように気をつけてくれ。」

「うん……!がんばるね!」








真剣な顔で頷いた名字だが、甘ったるい香りを放つキャラメルマキアートを口にしているせいか、ふざけているようにしか感じられない。
苛つくには苛つくが、こいつに対してまともに取り合うだけ労力の無駄だ。
落ち着け、気にするんじゃない。
怒り出しそうな自らを何とか律して、注意事項の続きへ移行する。
生徒会室で予め作成しておいた【正面花壇維持作業にかかる要綱】を彼女の方へと押しやった。






「重要な点はこのプリントに全部記してある。忘れたらこれを参照するように。」

「はーい……わあ、すごい!全部浅野くんが作ったの!?」

「ああ。このプリントは失くさないように厳重に保管してくれ。」

「もし失くしたらどうしたらいい?」

「だから紛失することを前提に話をするんじゃない!…………だがもし失くした場合は速やかに僕に連絡してくれ。代わりを渡す。」

「よかった、なら安心だね。」







この女……!米神に血管が寄るのを自覚した。話を聞いていないのか、はたまた彼女のすぐに忘れてしまう特性のせいなのか、話の趣旨を全く理解できていない。
安心するな、失くさないように気を張れと言ったんだ。
抑えようのない歯がゆさを一息ついて落ち着かせようと、珈琲に口をつける。
その苦味が今にも表へ出ようとしている暴力的な焦りに楔を打った。
もう一口苦さを飲み込んで、気を取り直して彼女に向き合う。








「とにかく、明日からは7:00に隔離校舎と本校舎への分かれ道で待ち合わせだ。」

「えっ?浅野くんも一緒にやってくれるの?」

「まさか。監視役だよ。」

「監視って………」

「勘違いしないでくれ、君を監視するんじゃない。本校舎の教師や生徒が君に近寄らないように監視するんだ。危ない場面になったら僕が誤魔化す。」

「……それって、もしかして………私を守ってくれ」

「断じて違う。」

「ちょっと期待したのに……!」






不満げにキャラメルマキアートをすする彼女の頭を軽くはたく。
昼間、名字を突き飛ばした時には少なからず「女子に手をあげた」と罪悪感を抱いたが、もはやここまで人間離れした頭の悪さを目の当たりにした今となっては、罪の意識もない。
そして名字を女子だと認識もできない。
いや、むしろ同じ人間だとすら……どちらかといえば野生動物・マスコット・ペットと評した方がしっくりくる。







「スマホ貸せ」

「?」







一声かけると、何も分かっていない様子でスマートフォンを僕へ差し出す。
赤い花の装飾のカバーに覆われたそれを受け取り、内蔵されたアプリを確認した。
LINEは入っている……しかしこの女の場合、トークルームを間違えて僕宛ではなく、例えばこの「3-E 女子会」だの「甘味同好会」だの、トップにある「中村ちゃん」に送ってしまう可能性がある。
やはり宛先間違いの頻発するLINEよりもEメールか電話で連絡を取り合う方が安全だろう。
煩わしいが、仕方がない。
勝手に長方形の機会を操作し、手早く自分のアドレスと電話番号を打ち込む。
そして、彼女のプロフィールからアドレスと電話番号を拝借し、自分のものへ登録する。
一瞬、登録名を「動物」にしてやろうかと思ったが、思いとどまって「名字名前」と打ち込んだ。






「僕のアドレスと電話番号を入れておいた。」

「わ、嬉しい……!」

「電話番号が入っているからLINEでも追加されているだろうが、LINEは使うな。トークルームを間違ったら大惨事だ。」

「分かった!」







互いに連絡先の交換も終え、これで大まかな打ち合わせは終了。
彼女にこの短時間で要綱全てを理解できたはずはないが、どちらにせよ説明は繰り返す羽目になるのだから今日はこんなところでいいだろう。
とにかく、毎日の集合時間さえ知らせておけば何とでもなる。
返却されたスマートフォンのアドレス帳に僕の名前が登録されているのを確認しながらきゃっきゃと騒いでいる彼女を横目に、机にさりげなく置かれていた伝票を持って立ち上がった。







「今日はこんなところでいいだろう。実際に実行しなければ分からないこともあるだろう。」

「うん。」

「じゃあ、君は先に店から出ていてくれ。」

「あ、お会計、渡しておくね、」

「いらない。」

「え、?」

「僕が払う。」

「いいよ!なに言ってんの!」

「君こそ何を言ってるんだ。僕が連れてきたんだから僕が払う。大人しく店の外で待ってろ。」







ちょっと!!と騒ぎ立てる名字を店の外へ押しやり、手早く会計を済ませる。
彼女をここへ連れてくる羽目になったのは僕ら生徒会の依頼に起因する。
それで名字に会計を出させることは、僕のプライドが許さなかった。
財布を鞄へ戻し、店の外へでると申し訳なさそうな表情を浮かべた名字が大人しくまっている。
開口一番に「ごめん、ありがとう。」と謝罪と感謝を同時に述べられた。
それがあまりに重かったものだから、気にするなという意志をこめてまた一発後頭部をはたいてやった。








「じゃあ、僕はこれで。駅へ向かうよ。」

「駅……?(最寄り、ここじゃないんだ)」

「君の最寄りはここだろう?気をつけて帰れよ。それから明日だが、時間厳守で頼むよ。」

「っちょ、ちょっと待って!もしかして浅野くん、私の最寄り駅だからここに……」

「……………さあ、」




別に、そこまで考慮したわけじゃない。
ただ名字の最寄り駅が椚ヶ丘から程よく離れ、程よい規模の駅だっただけのこと。
それだけであって、何もわざわざ彼女を気遣ったわけじゃない。
しかし、背後で奇声を上げている名字は、どうやら自分に好都合に解釈したらしい。
僕が駅へ脚を進めたことに気がつくと、「浅野くんだいすき!!!」と後ろからタックルをかますかのような勢いで背中にへばりついてきた。
ミシッ、と背骨の軋む感覚。







「名字……!」

「ありがとう浅野くん!そういう優しいとこ、好き!」

「分かったから離れろ!」








少々面倒な人間だが、もはや名字名前は生徒会が巻き込んだ共犯。
不本意ながら、僕が卒業して生徒会長を退くまでは正面花壇の維持に連携してあたらなければならない。
そのパートナーとも言える人間がこんな常識知らずでいいものか、いいはずがない。
とにかく明日からは、「簡単に人に抱きつくものではない」とその残念すぎるほどに残念な頭に叩きこんでやろう、と決心した。










(すべてのルールに従えば、すべての楽しみを取り逃がしてしまうわ。)


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