指先から春

彼女を意識の中心に置きだしたのは、ほんの偶然だった。
校内ではさして色味のない、いわば舞台のハリボテのように背景と化している彼女だが、その日の朝は少々違う色合いを醸し出していた。
まるで身体中が光のベールで包まれているような、瞳から力強い色彩を放っているような、そんな存在感。
同じ学校の、それも普段ならば歯牙にもかけないC組の女生徒だということにも気付かず、彼女に見入ってしまう。
そんな魅力があった。
あの日の朝から、おかしなぐらいに彼女に惹きつけられてやまない。
磁石のS極とN極が強烈に引き付け合うような……いや、惹かれているのは自分だけだからむしろ磁石と砂鉄の関係と形容した方が適切かもしれないが。
何にせよただ一つ言えるのは、彼女の方は僕に大きな興味を示さないということである。











「名字さん、重そうだね。半分持つよ。」

「ん?このくらい大丈夫だよ、ありがと。それよか、もうすぐ生徒会会議でしょ?始まるまで少しは休みなよ。」

「いや……しかし、名字さんが荷物を運んでいるのに僕が休むわけには……」

「大丈夫!私、さっさとこの荷物片付けて部活いくね。気遣ってくれて嬉しかったよ。じゃあね!」








パタパタと小走りに重そうな荷を抱えて職員室へ向かう彼女の後ろ姿に、窓ガラスから反射した陽の光が重なる。
おおかた、教師に荷持ちを頼まれたのだろう。
責任感も強くしっかり者の彼女は、C組内でも所属する部活内でも中心となることが多いと聞く。
その華奢ながらも力強い後ろ姿は、初めて彼女を認識した日から何一つとして変わっていない。
僕はあんなにも美しい人間を、見たことがなかった。
眩い輝きに照らされた名字さんの髪がゆらゆらと踊るように揺れる。
触れたい、そう衝動が訴えかけたと同時に、彼女の姿は廊下の曲がり角の奥へと消えていった。








**


忘れもしない、半年前の朝。通学中の満員電車でのこと。
いつも通りに最寄りの駅から電車に乗り込むとすぐに単語帳を広げて人間の群れから目を離す。
不愉快な満員電車の光景を締め出して視界を英単語一色に染めるこの行為は僕の毎朝の習慣だった。
しかしその日だけはいつもの如く、心安く単語の確認をすることは許されなかったのだが。




「う……ゃ、やだ……た、すけ……」





痴漢。もう少しオブラートに包んだ表現をしたかったが、そうとしか言いようがないのだから仕方がない。
目前で椚ヶ丘の制服の女生徒が、背後のスーツを着たサラリーマンにスカートの下をまさぐられている。
どこからどう見ても、まごうこと無き性犯罪。
意識するまでもなくその光景の下劣さに眉間に皺が寄った。






「ヒィ……や、やだ、た、すけ……!」






この場で取るべき行動は一つーーー、シャットアウト。
満員に輪をかけて悪化した朝の戦場から目を逸らし、女生徒の悲鳴を遮るべくイヤホンへ手を伸ばす。
迷いは無かった。月曜日の朝からこれ以上見苦しい世界を目の当たりにしてはたまったものじゃない。
恐らくは、あの日の朝は僕に限らず乗客の誰もがそうだった。
みな一様に明後日の方角を向き、イヤホンから流した軽快な音楽で助けを求める小さな声を掻き消すのみ。
だからこそ、僕の行動と選択は当然といえば当然の帰結だった。
あの場で、哀れな性犯罪被害者を助けようとした人間がどれほどいただろうか。
間違いなく、自信を持って片手に足るほどであったと断言できる。

だからこそ、なのだろう。
その誰しもが目を合わせようとしない奇妙な静寂の中でも行動を起こした彼女に、ひどく惹かれて止まないのは。





「ちょっと!何してるんですかあなた!」





僕が今にも音楽をかけようとしていた、まさにその時だった。
1人の少女が性犯罪者の手をガッシリと掴み、鋭い目付きで睨み上げる。
その瞳に映るものは、この世界の歪みそのもの。
ミシッ、と掴んだ腕の骨が嫌な音を立てる。
しかしその不穏な音に構う様子もなく「痴漢ですよね、次の駅で下りますよ。」と容赦なくサラリーマンに突きつけてみせる。
僕を含む周囲の乗客たちの好奇の視線を一身に受けてもなお、果敢に立ち向かい続けるその雄々しさ、美しさを何と形容して良いか。
その術を、僕は未だに持ち合わせていない。
あまりの不安に泣きじゃくる少女を庇うように立った彼女ーー名字さんは、今と変わらない正義を背負って立っていたのだ。あの日の朝も。








**


「おーい!遅れてごめんね。」

「あ、名前!もう練習始まってるよー!」

「すぐ着替えてくるね!」







窓の外から室内に侵入してきた溌剌とした声に、何よりも先に耳が反応する。
あれは、あの溢れんばかりの生気に満ちた声は。
換気のために開けていた窓へ立ち寄り下を見遣れば、グラウンドから更衣室へ向かう名字さんの姿を捉えることができた。
どうやら無事に荷物を運んで部活に合流できたらしい。
どことなく浮き足立ったような歩き方の彼女に思わず表情筋も緩む。ふわふわと春の風に紛れてここまで届いた甘酸っぱい芳香は、彼女の香りか。










「浅野?どうかしたか?」

「いや…何でもない。そろそろ始めようか。」







隣で窓の外の世界に何かを見つけようと覗き込む瀬尾を制して、席へ着くよう促す。
もう人も大部分は集まったことだ、生徒会会議を始めるのに頃合いもちょうど良いだろう。
そろそろか、と全開の窓を半分ほど隙間を残して閉める。
わずかに狭まった隙間から、ゆるやかに流れ込んできた春の空気が窓際へ滞留した。







「おまたせー!」

「名前!だから遅いってばー!」









席へ着く前に、外の世界へ再び視線を向ける。
更衣室から出てきたらしい制定ジャージを着た名字さんが部活動の輪の中へ加わってゆく。
その瞬間に上がる歓声、楽しげな笑い声。
その全てがいとも容易く内へ侵入し、抑え難い衝動が込み上げた。
彼女の健康的な美しさと力強さ、そして溢れんばかりの生命力の奔流が視線を奪う。
とりわけ容姿が整っているわけでも、学業に秀でているわけでも、特殊な能力を持っているわけでもない、一見すれば平凡な女生徒の名字さん。
しかし、彼女の人間らしい魅力には誰も敵わない。アイドルだろうがハリウッド女優だろうが、世界三大美女であろうとも、間違いなく。
ふと磁力のように惹かれたその先、友人からぐしゃぐしゃと髪を掻き回されている彼女の天真爛漫なはしゃぎ声が僕の鼓膜と心臓を強く打った。





「浅野?始めるんじゃねえの?」

「ああ、すまない。」








このままでは会議に集中できそうもない。
名字さんの声が聞こえる度、香りが風に舞う度に、僕の意識は外へ引っ張り出されてしまう。
名残惜しさを断ち切るように拳を握り、半開きにしておいた窓を完全に閉めようと窓に手を掛けた。
”あはは” ”うふふ” またもや響く鮮やかな声。
そこに混じって、”浅野くん!”と微かに僕の名を呼ぶ声がする。







「……はは、君の仕業かな、名字さん。」










完全に外の春を締め出すその直前。
するりと自然に、軽やかに、艶やかな桜の花びらが室内へ滑り込んできた。










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