エミール、聞こえますか

*五英傑のキャラ崩壊












5月も半ばとなると、気温はそれほどでなくても日差しは厳しい。
まさに日本晴れ、雲一つない青空が広がる日も珍しくなくなった。
日中に外を歩けば軽く汗ばむ程度の陽気。
私はそんな清々しい外の世界を職員室の陽だまりから眺めては1人微笑んだりなどしていたのだが、そんな天候下での体育などは、普段勉強ばかりのA組生にはよほど堪えるらしい。
木曜日の3限の体育が終わると、汗ばむどころかびっしょりと額や首回りを濡らした生徒たちが虚ろな目で更衣室へ向かう様子を見かけることができる。







「名字先生〜」

「お、体育終わったみたいだね。おつかれ。」

「もう無理です……一歩も動けない……」

「ほらほら、そんなこと言ってないで更衣室で着替えてきな。」






そろそろ授業に、と職員室から出てすぐのこと。
向かい側から汗だくのA組の女生徒が2人、こちらへフラフラとよろめきながら寄ってきた。
ははん、今日の体育でも絞られたな、と労いの言葉をかけてやれば、中学生らしい冗談と甘えを織り交ぜた返事を寄越してくる。
「急がなきゃ授業、始まるよ」こつん、と軽く頭頂部に拳を乗せてやれば、きゃっきゃとはしゃぎながら更衣室へ足早に向かった。
まったく、何だかんだ言って元気なものだ。
中学生らしくて大いに結構。





教職にはさして興味があったわけでもなし、ただ取れる資格は取っておけとばかりに取得した教員免許状だが、こうして実際に就職に役立ったのだから本当に大学4年間で頑張って良かった。
教師など辛いだけだと思っていたが、意外にものめり込んでいる自分がいる。
初めて副担任を受け持ったA組生の連中が可愛くて仕方ないのだ。
先ほどの女生徒2人もそうだが、ああやって時には甘えたことを言ってくるのも、進学校の生徒とはいっても彼らも中学3年生なのだと実感できて嬉しいものである。
完成されすぎた15歳など、大人の自分から見れば気持ちが悪い。





今日も、いい1日だ。
ふと見上げた窓の外、ホースで水の掛け合いをしているA組の男子諸君が目に入り、くすりと笑みが漏れる。
さて、そろそろ4限も始まる。
教室へ向かうとしよう。












「きゃあ!!」

「ヘンタイ!死ねっ!」

「うわ、ちょっ、やめろ女子!」









……何やら、嫌な予感がする。
4限の日本史の授業を行うため教材を抱えて廊下を急いでいたが、A組の教室に近づくにつれて大きくなる女子の悲鳴。
そして何やら弁解している男子連中。
ガタン!ガコン!と音が聞こえるあたりからして、どうやら女子が何かを投げつけているらしい。
そしてそのターゲットは間違いなく、男子だ。
正直、中学校に勤務していればこんな騒ぎは日常茶飯事。特筆すべきことではない。
しかしA組がこのような馬鹿騒ぎを起こしているというのは、大いに目を瞠る出来事であった。







「何やってんの!授業始めーーー」

「あ、」

「名字先生見ちゃダメぇ!!」

「は……、?」








男子が、脱いでいる。
と文章で見るとさほど大きなインパクトはないだろうが、この光景を実際に目の当たりにした私の気持ちを考えてみて欲しい。
授業を行おうと教室に入った瞬間にこれだ。
男子が、脱いでいる。
もう少し分かりやすく的確にこの情景を伝えようにも、これ以上は説明のしようがない。
男子数十名がトランクス一枚で立っている……そして女子は日本史の教科書を手に臨戦態勢。
そこに状況を把握しきれない教師が1人。






「えー……と、とりあえず、全員座れ。」






放つ言葉は、これが精一杯だった。















「つまり、男子の体育が長引いて更衣室で着替える時間が無かった。そこで教室で男子たちが着替えていた中に何も知らない女子が入ってきてパニックになり、さっきの騒動になった。浅野、そういうこと?」

「はい。そうです。」

「で、男子諸君は女子からの攻撃に防戦一方でズボンを履く暇も無かったと?」

「はい、その通りです。」

「分かった、分かったから男子は早くズボンを履きなさい。」









学級委員の浅野に状況を説明させて後、ようやく現状を理解した。
ズボンを履くように、と指示をした瞬間に男子たちがゴソゴソとズボンを引き上げる音が響く。
彼らは進学校の生徒らしく、教師に対して従順だ。
一度チャイムが鳴り、教師の支配する授業の時間となれば指示がなければ決して無駄な動作を起こさない。
それは今回の非常事態とて同じだったらしく、私が「座れ」と指示をすれば座ったものの、「ズボンを履け」と指示しなければ、誰一人としてズボンを履かなかった。
自主的にズボンを履いて欲しい場面ではあったが、これは最初に「座れ、ズボンを履け」と指示しなかった私が悪い。
全く…扱いやすいんだか扱いづらいんだか分からない連中である。







「よし、準備はいい?授業始め………榊原、さっさとズボン履きなさい。」

「もうこれで見納めなので、サービスを。」

「いらないよそんなサービス!女子騒ぐな!」







榊原が社会の窓をゆっくりと引き上げる度に上がる女子の歓声。(あれだけ大騒ぎで威嚇しておいて、榊原が脱ぐと喜ぶのだから女子は分からない)
何のサービスだか知らないが、女生徒相手に意味もなく流し目などしてみせる榊原にぴしゃりと言い放ってやると、肩を竦められた。
待て、なぜ私がそんな態度を取られなければならないのだ。








「浅野くんもたまにはサービスしてみたらどうだい?」

「………、」

「余計なこと言うな榊原!女子騒ぐな!!浅野脱ぐな!!!」








結局、この日の授業はまともに進まなかった。
あの後、ようやっと榊原が服を着たかと思えば瀬尾がサービス(仮)に走り、女子が騒ぎ、そして得意の日本史の時間を潰されたことで荒木がキレ、その隙に榊原と小山がまたもやサービス(仮)に走り……。
それにしても一般生徒が脱ぐと教科書を投げつけにかかるのに、五英傑が脱ぐと嬉しがるのは一体どういうことなのか。
モテる男子(五英傑が全員そこそこモテているのはよく知っている)のトランクスなら積極的に見たいのか、女子よ。
いやいや、それ以前に小山や荒木や瀬尾がモテること自体が不可思議である。
浅野や榊原は顔が比較的整っているから分からんでもないが、小山・荒木・瀬尾はごくごくありふれた顔立ちだが……頭の良い自信家は格好良く見えるのだろうか。
A組の生徒たちはみな可愛く思っているが、中学生の心境は良く分からない。
何にしても言えることは、今日の授業は大失敗だったということだけである。


はああ……と大きく息を吐く。
職員室へ戻ると、隣の教室で授業をしていた大野先生から「A組、何かあったんですか?」とたずねられてしまった。
まさか男子たちが授業開始から30分ほどトランクス一枚で過ごしていたなど口に出来ず、曖昧に返す。
大野先生は腑に落ちない表情を浮かべたが、内線が鳴ったこともあり、深くはつっこんでこなかった。
それにいささか安心して、自分のデスクの椅子に雪崩れるように座り込む。
今回の事件は教師には予期できなかったとはいえ、全く私も不甲斐ないものだ。
あの程度のことで授業時間を30分も潰してしまうとは。
チラリ、職員室の隅に取り付けられた監視カメラを万引き犯のような心境で盗み見る。
あの4限の擾乱を大野先生はスルーしても、理事長の目には留まっているに違いない。
そう考えると急激に胃が痛くなり、いっそ残業などせずに定時で帰ってやろうかという目論見すら浮かぶのであった。












「ああ、名字先生。お疲れ様です。」





げ。
私の表情を一言で、端的に表す文字である。
放課後にはなったものの、基本的には小心者の私が残業をせずに直帰などできるはずもなく、いそいそと昨日実施した小テストの採点をしていた最中。
ガラッと軽快な音と共に開いた扉から、スラリとした体躯の人物が入ってきた。
後ろを振り返らずとも、雰囲気で悟る。
この重苦しい気配は、我が校の理事長の浅野学峯その人であるーーと。







「おや、他の先生方は部活動の指導に出ているようですね。」





彼はぐるりと閑散とした室内を見回し、私のデスクへコツコツと歩み寄ってきた。
高価そうな革靴の音が私の鼓膜を責める。
この時ばかりは、”活動が週1日で楽だから”と放送部の顧問を引き受けた自分を恨んだ。
コツコツコツ、コツ。
靴の音が完全に止まる。
恐る恐る上方へ目をやれば、理事長がにこりと人好きする笑みをたたえて私を見ていた。






「名字先生、大変でしたね。今日の4限は。」

「ご、ご覧に……なってたんですね。」

「もちろん!名字先生はA組の生徒に好かれていますから。その秘密を探りに、ね。」







ぱああっと発光するかのような眩しい笑顔だが、騙されてはいけない。
理事長が表情を綻ばせている時ほど、相手は静かに崖っ淵へ追いやられているのだ。
その証拠に私の背筋には先ほどから悪寒しか通り抜けない。非常にまずい。
とは言え、危険を察知したところでそう簡単に逃してくれる相手ではないのだが。
早い話が、絶対絶命。






「お、お見苦しいところを……お見せ致しまして……。」

「見苦しい?まさか。名字先生はあの状況でよく頑張りましたよ。」

「(嘘つけ)」

「一つだけ言わせてもらえば、少々頭を真っ白にしすぎた所はありましたが。あれは致命的でしたね。」

「面目ない、です……」








ああもう!やっぱり怒られるんじゃないか!
切り口は穏やかだが、理事長の言葉の端々から嫌味の棘を痛いほど感じる。
経験がモノを言う私学教育界において、新卒1年目で経験値のない私を快く拾ってくれた理事長の期待を、現在進行形で裏切っている。
その罪悪感が身に沁みた。
理事長の怖いところは、畏怖と罪悪感を巧みに混ぜ合わせて相手に”申し訳なさすぎて死にたい”と思わせるところである。
現に私はいま、罪悪感に殺されかけている。
ゴゴゴ……と重苦しい効果音と暗雲と共に、理事長の右手が私の頭上に伸びた。
あっ、まずい死んだ……!







「………まあ、1年目ならこんなものでしょう。合格点です。」

「へ、?」

「これからも期待していますよ。名字先生。」









ぽん、と私の頭に置かれた大きな手。
バシン!だのゴツン!だのベシッ!だのと、もう少し激しい擬音を想像していた私には、目からウロコの出来事であった。
信じ難い気持ちで理事長を見上げる。
普段の威圧感を伴う笑顔よりも幾分抑え気味の微笑が、私を控えめに照らしていた。
ふわり、胸にあかりが灯る。
では、これで。それだけ言って、理事長は私から離れていった。
その後ろ姿を、未だ呆然と見ていることしか出来ない私。







「ああ、そうだ……後で東館1Fの男子トイレを覗いてみて下さい。」







始まりと同じく、ガララッと軽快な音と共に去っていった理事長。
思っていたよりも手酷く怒られなかったことで頭はいっぱいいっぱいだったが、もしや今のは微妙に褒められた…のだろうか?
赤ペンを指と指の間でくるくると回しながら理事長の言葉を一つ一つ脳内で再現する。
しかし、結局のところ半分怒られ、半分褒められた(?)ようなニュアンスだったのでプラスマイナスゼロなのかもしれない。
しかし、理事長から例え?マーク付きであろうとも褒め言葉を与えられたのは初めての経験だったので、口角は無意識に上がった。











そしてこれは後の話だが、東館1Fでは浅野を筆頭とした五英傑がトイレ掃除をしていた。
なぜそんなことを、と問えば不満を隠そうともしない浅野が「理事長からの命令だ」と言う。
なるほど、理事長なりに今回の授業をぶち壊した原因(諸悪の根源は榊原だが)に罰則を受けさせていたようだ。
しかしその光景を見て密かに彼らを哀れんでしまった私はやはり、甘いのかもしれない。










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