「……ハイネ、……来る、な……っ」

口元から赤い液体を滴らせ、それでも、私の名前を呼ぶなんて。
それに対して私は言葉を発することすら出来なかった。信じられなかったからだ、この状況が。

「う……ぁ」

たったの一瞬が、随分長く感じられた。
彼の苦しげな呻き声、彼の身体ががくりと力をなくす、その一瞬。

「エース!」

クイーンさんの叫び声が聞こえる。
私は片手を壁についたまま動けない。痛かったはずの足の感覚が、なくなっている。現実味がない。こんなの、夢だ。悪夢に決まってるはず。

「……」

白い人が私を視界に入れた。エースさんが来るな、と言った理由が分かる。仮面で素顔を隠していてもなお、その殺気が私を突き刺すのだ。これは夢なんかじゃない、と言われてるみたいだった。
あれが、あの人が白虎のルシなのか。

「ハイネ、逃げなさい! エースと同じ目にあいますよ!」

頭が、叫ばれた言葉を飲み込まない。
ルシが、背後に魔方陣のようなものを現出させたのに、私は足が根をはったように動けない。
無情にも地に叩き落とされる動かない身体から、目が離せなくなっていた。

『そういうハイネだから、僕は』

彼の声が、頭の中で反復される。
そこに倒れているのはエースさんで、間違いはない。そう、彼だ。
その少し向こうに倒れているのは、最初は恐かったけれど、クイーンさんと並んで、0組で初めて名前を教えてもらった、ナインさん。
……私はまだ彼らを覚えている。まだ。

「……っ!」

私は駆け出した。
まだ私は覚えてる。間に合う、間に合う、お願い間に合って!
白虎のルシが、光の刃を振りかぶるより一瞬早く、私はエースさんの元へ滑り込むと同時に治癒魔法をかけた。
しかし、エースさんの身体はぴくりとも動かない。

「……え? どうして?」

――死んで、る?

触れた彼の首筋は脈を感じられない。血の気を失って、透き通ってしまうほど白くなりつつある顔。
思考が止まる前に、咄嗟に少し離れたナインさんの方も見やった。腕が、足が、あり得ない方向に折れ曲がっているではないか。あんな状態では、もう。

私は手元に落ちていたカードを無意識に拾い上げた。

――彼らは、死んだの? 死んでいるの?

そのとき、頭上に滞空していた敵がパリン、と固まる音がする。
見上げたら、振りかぶっていた刃が消えていた。ルシが、凍り付けになっていた。

「た、隊長!」
「何をしている。早く退け。特にそこの2組の候補生」

振り返ると、クイーンさんの隣に0組の隊長……クラサメ・スサヤがそこにいる。冷たい瞳が私を睨んでいた。
でも、立ち上がれないのだ。冷たくなるエースさんの傍を離れるなんて、そんなこと。

「ハイネ! 退くぞ!」
「ぐずぐずするな、人間が適う相手じゃない!」

しかし、背筋を冷たい何か滑り落ちるような感覚を遮って、二人の候補生が腕を引いた。

「イナリ! コハル!」
「今シュユ卿が此処に向かっているそうだ、私たちはとにかく逃げるしかない」

コハルに手を引かれ、私はまた走りだす。ナインさんを、エースさんを置いて。

「時間稼ぎは引き受ける」
「エースとナインも、わたくしたちが必ず連れて帰ります」

クラサメ隊長とクイーンさんが、すれ違いざまに私たちに声をかけた。手を引っ張られながらもまだ振り返る私の代わりに、イナリとコハルが頷いたようだ。
私たちが広間の出口に辿り着いた頃、氷が砕け散る音が聞こえてくる。

「ハイネ、走れ!」
「振り返る暇はもうないぞ」
「は、はい!」

混乱する頭のまま、しかしコハルが言うとおりルシが魔法から解放された以上、本気で逃げるしかない。
私は前を向いて、走る。
揺れる視界が、じわりと滲んだ。





トゴレス要塞での戦いは朱雀と白虎、勝ち負けのない形で、双方に多くの『死』を残すだけで終わった。あの後なんとか要塞を出た私たちは、空を駆ける朱を見た。その後、要塞内から鋭い閃光同士がぶつかっていたのを考えると、あれこそが朱雀のルシ、シュユ卿に違いない。
私は一日、しかも短い間にルシを二人も見たのだ。すごいことなのかもしれない。要塞を跡形もなく破壊してしまった、人間を遥かに越える存在。世界が違う。私は机上でしか見たことのなかった彼らに、たとえばそう……ドクターアレシアと対峙したときのようなものを感じた。

「ハイネ。本当に怪我した足が痛いわけじゃないのか?」
「……うん」

しかし、そんな大きな経験すら私は頭の隅に追いやっていた。
帰投して、部屋に戻っても塞ぎ込む私をナデシコは心配してくれたけど、私はそれを曖昧に返してしまうほど。

「先に寝るが……ハイネもあまり遅くまで起きていると疲れがとれないぞ」
「うん、ありがとう」

ナデシコは私の肩を優しく叩いてからベッドに入ったようだった。
私は椅子に座ったまま、手で制服のスカートを握り締める。
何も考えられない。散漫としてしまった思考を掻き集める気力もなく、私はただぼうっと宙を見つめた。夜だけが更けていく。



次の日になっても、私は心此処にあらずといったような状態だった。結局ほとんど眠れなかったのだ。
しかし、私の体は無意識の内に銀のじょうろを抱えて裏庭に立っている。花が揺れるこの庭に。

朝の風が柔らかく頬を撫でる。こんな風に春の風を感じたのは何日ぶりだったろう。
多少とはいえ眠ったお陰か、昨日よりは思考がクリアだ。昨日のことを思い出す。

エースさんは、私のことを分かってくれていた。しかも、また私の命を助けてくれたんだ。だから私はここにいる。これも、彼が教えてくれた幸せ。
でも、違う。私はここにいるのに、ちっとも幸せじゃない。

エースさんが、いない。

私を助けてくれたひと。私を見抜いてくれたひと。

「…………、っう」

涙がまた頬を濡らした。
泣かない、と封じ込めた自分を許した途端にこれだ。
私があそこで自分の力でどうにかしていれば。クイーンさんとナインさんと一緒に彼も広間に行っていれば。ナインさんは、エースさんは助かったんじゃないの?
後悔ばかりが押し寄せる。
涙は止まらない。こんなの、まるで悲劇のヒロイン気取りみたいで嫌。
でも、こんな気持ちは初めてで、どう止めればいいのか分からない。

――今までは、両親の死すら、泣くことはなかったの……に?

はた、と涙が勝手に流れを止めた。

「…………あ、あれ?」

代わりに、ぞくっと背筋に恐怖が滑り落ちる。
何もかもが思い出せるのだ。彼らの『死』を。

「どうして? クリスタルの、加護、は」

呟いた声が震えていた。じょうろが抱えた腕から固い音を立てて地面に落下。
私はそれを拾い上げもせず、墓地へと早足で向かう。
現実味を帯びない白い肌、脈を失くした首筋。ひとつ思い出す度に歩調が早まった。
しかし、新しい墓にはどこにもナインさんとエースさんの名前がない。あの0組だ。死んだのに墓がないなんてことはあるはずがない。

――どういうこと? 私が見た、感じたあれは、なんだったの?

私はもう一度足元に列ねられた名前を確認しようと足を踏み出そうとする。しかし、目の前に人がいることに気付いた私ははっと顔を上げた。

「あ、れ、レムちゃん」
「おはよう、ハイネ。早いね」

そこにいたのは、朱のマントを纏う、レムちゃんだった。
ふわりと微笑まれて、私は意味もなく息を飲み込んでしまう。
「ハイネもお墓参り?」と首を傾げる。私は曖昧な角度に頷いた。

「そっか。私もね、昨日一緒になった人の名前を書いたノートに、知らない名前があったから。その人を探しに」

「この人が、そうみたい」。レムちゃんが目線を下げた。もしかして、とその墓に刻まれた名前を見る。エースともナインとも書かれていなかった。
私はもう一度レムちゃんの方に視線を戻す。少しだけルビーの瞳を丸くして、彼女は私の言葉を待っているようだ。

「0組に、なんていうか、その、死んでしまった人は……いない?」
少しの間、沈黙。
小さく開いていた唇を閉じて、緩やかな弧を描かせ、慈愛に満ちた目を細め。まるで私を安心させるような優しい声色で、レムちゃんは言った。

「……ああ、エース君たちが白虎ルシに遭遇したって話を聞いたんだね?」

レムちゃんも、ちゃんとエースさんのことを覚えているんだ。私は余計に首を捻りたくなったが、ここは話を合わせておくことにする。

「う、うん。そんな感じ……かな」
「私は別部隊だったから、詳細は分からないんだけど……覚えてるってことは、大したことはないんじゃないかな? 教室に戻れば、誰か知ってるかも。行こう?」

レムちゃんが私の手を引いた。ちょっと転けそうになったけれど、なんとか持ち直して彼女の後に続く。
揺れる茶髪の後ろ姿を眺めながら、私はひとつの疑惑を思い浮かべた。

――もしかしたら、なんて。

でも、それくらいしか思い浮かばない。
薄々気付き始めたそれを掻き消したくて、私は俯いて手帳と一緒にポケットにしまったあのときのカードを、布越しにそっと触れてみたのだった。
「#学園」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -