下手くそな鼻歌が聞こえる。
トントンと軽快な包丁のリズムが聞こえる。
自分が起こした以外の音がこの部屋に響いたのはいつぶりだったか。
やけに楽しげにちょこまかキッチンを動く背中が見える。
そいつが動く度に揺れる髪が、洋服の裾が見える。
その背中は、髪は、あの頃となんら変わらない。あの頃と言ったって、そう何年も昔というわけでもないのだから、当然だ。ああでも、少し髪が伸びたかもしれない。あの頃は、
「……チッ」
思い出しかけて、目を逸らした。
しかし、視線を逸らした先に目に入ったのは、またもいろはが引き摺ってきたトランク。……狭い部屋なのだから目立つのは当然だ。持ち主が悪い。
「……いろは」
「おさかなー、にゃんにゃー……ふんふんー」
気付いていないのか。
この能天気馬鹿。俺は立ち上がると、いろはの背後、振り向いたら丁度頬がくる位置に拳を構えた。
「いろは」
「はぁい!」
「気味の悪い声を出すな」
まさかそんなに勢いよく振り向くとは。予想を遥かに超えていろはの満面の笑みに俺のカウンターがクリーンヒットした。正直少しスッキリした。
どうしようもなく不細工なくまのストラップが見える度に、記憶だの思考だのぐちゃぐちゃと絡まって、不快で仕方がなかったのだ。
05 sunny merry thinking
買い物と担架を切ったのはいいのだが、実際特に何か用事があるわけではない。
……腹なら減っている。どっかのアホの所為で。普通人が腹減ってるっつってんのにスーパーで戦闘(いろは曰く)してくる馬鹿がいるだろうか。いや、いた。現在進行形で俺の部屋にいる。なんてことだ。
「っとにイラつかせる天才だなアイツ」
しかしどこかで腹ごしらえしてしまおうかという考えは自然と流れていた。……あんな張り切ってたってことはまた量も後先も考えてなんかねえんだろうな。処理係に回らねえと。
さっきからアイツのことを思い出すたび多方面で神経を逆撫でされる。神経と共に体力まで持ってかれそうな気さえしてきやがるから重症だ。馬鹿な上に人の神経をすり減らす天才とは救いようがない。
エレベーターの扉が開く頃に、ようやっと俺は足の向ける先を決めた。春の陽気から逃げるように、俺は背を丸めて歩きだす。
雨でも降りゃいいのに。しかしうららかな陽気はさんさんと俺に降り注ぐ。横目に道路ではしゃいで遊ぶガキたちが見えた。いろはなんかはなんの躊躇もなく飛び込んでガキの冒険ゴッコに参加するんだろう。
「……」
春の陽気とどこぞの能天気馬鹿に当てられて俺まで思考が弛んだか。むしゃくしゃするので、道端の石を蹴った。それはころころと転がり……と、思いきや、丁度排水溝の隙間に挟まって止まった。落ちもしないところがなんとも思い通りにいかない。
×××
「ありがとうございましたー」
自動開閉ドアをくぐろうとすると、レジのおんな達がこそこそと俺の背中を見つめては盛り上がるのが聞こえた。「ね、今の人見た!?」「見た見た! もーいいなあレジ当たって!」「なんかね、調味料いろいろ買ってたの! 料理するのかなー」「ハイスペックすぎ!」……。どうでもいい。
片手に提げたビニール袋にやけに丁寧に入れられたのは確かに調味料の類だが、それはあの煩い仔犬のあれがないこれがないとあからさまに俺に向けた独り言がしつこかったから。自炊などほとんどしない俺の台所では料理する度煩いだろうし、だからと言ってアイツを連れてまで外食に行くのも面倒だから。
面倒だ。面倒なのだ。
一体全体全くどうしてあの馬鹿は家なんかに来たのか。迷惑だ、それ以外の何がある。そう思うのは事実のはずなのに、歩くたびかさかさと音をたてる袋の中身はあいつの滞在をすっかり許す印に見えて、俺は心を込めに込めた舌打ちを落とした。
ああ陽射しがうざったい。
いい加減料理は出来たのだろうか。ないと喚いていた諸々は購入したのだからもう文句は言わせない。ああ、そういえばアイツ、『なんでもするから匿って』とか言ってたよな。どうこき使ってやろうか。困った顔をしつつ断れないいろはの動揺っぷり考えたら、苛立ちが少し治まった。やはり苛立ちは大元にぶつけるに限る。
家に向かう足取りが、少し速くなった。