降っているか降っていないのか、分からないくらいの小雨が落ちる路地裏。
髪の毛が貼りついて気持ちが悪い。しかしわたしは息を切らしていて、濡れることに抵抗は出来なかった。そんなに余裕のある喧嘩ではないのだ。
対峙している相手は一人。見た目にはそれ程疲労していないようだけど、わたしの蹴りをまともに受けた左腕には力が入らなくなっているようだ。息は上がっていてもこれといって怪我はしていないわたしと比べたら、同等だろう。

「多少は強くなったみたいだな」
「お陰様、で」

わたしが荒い息のまま応えると、相手は眼鏡のブリッジを中指で押し上げた。「美咲はどうしてる」。

「さあ、ね」
「チッ」
「……舌打ち、怖いってば」
「ああ、懐かしいな、お前にそうやって言われんのは。なあ、いろは?」
「そうかもね、猿比古くん」

にやにやと底の知れない笑みを向けてくる猿比古くんは、前よりおかしくなっちゃったみたいだ。
前というのは、そう、彼がまだ吠舞羅の一員であったとき。あれは、もう過去になってしまったのか。

「その顔! 俺が変わっちゃったー、とか生温いこと考えてんだろ? 美咲といろはと俺三人でよろしくやってたことでも思い出したんだろ?! 残念だったなあ、俺が変わって!!」
「や、やめて!」
「俺は美咲に恨まれるのも好きだけど、いろはのそういう絶望した顔も好きだ」

両腕を広げてけたけた笑う猿比古くん。そんな人じゃなかった。
確かに彼は変わってしまった。君は誰なの?
……いや、違う。彼はもう、わたしの知る猿比古くんじゃなくて当然だ。
わたし達は、敵なのだから。

「……変わってくれて、よかったよ」
「はあ?」
「だって、手加減のしようがなくなるじゃない」

ちゃんと分かってる。わたしは君と決着をつけなくちゃいけない。「そんな猿比古くんじゃ、八田くんに会わせるわけにはいかないもの」。
人気のない路地で青いコートの彼にばったり会ってしまったのも、数言も交わさず路地の裏に入って戦闘になったのも、多分そういう運命なんだ。

「おいおい、こんなときに俺と美咲の心配なんて余裕だな」
「二人のことはそれなりに知ってるから。喧嘩、して欲しくないの。二人の喧嘩って怖いし」
「へえ」

そこからは速かった。

駆け出したわたしと、右手に持った剣を振るう猿比古くん。しかしわたしは先程潰した彼の左手際に寄ることで、その攻撃を避けた。
続けて素早く回し蹴りを繰り出す。猿比古くんが身を引く。わたしは拳で追攻撃を加えた。猿比古くんも負けずに細身の剣を突く。息をつく間もなく連続で繰り出す突きに蹴り。正直両手の使える彼に勝てる自信はなかったが、片手なら、わたしにも勝機はある。
鋭い剣筋に、わたしはしゃがんで回避した。
一瞬の隙。
わたしはそれを見逃さなかった。地面に手をつき、足を上に蹴りあげて彼の剣を吹っ飛ばす。放物線を描いて、遠くでカラン、と固い音をたてるそれ。

「猿比古くん」

残念ながら、チェックメイトだ。

「ねえ、吠舞羅に帰ってきてよ。みんな怒るかもしれないけど、わたしが説得する」

猿比古くんは愛想こそないけれど、本当は仲間思いで優しいところがあるのを、わたしは知っている。
だからその綺麗な顔に傷をつける前に提案したのに、危機に瀕しているはずの猿比古くんの表情は未だどこか高揚した笑み。

「……無理な希望だな」
「じゃあ、」

ごめんね。

空気を切る音。
ぐらりと身体が傾いた。





それは、まだ猿比古が吠舞羅の一員だった頃。

いろはが揺れに目を覚ますと、自分の身体が誰かに背負われていると気付いた。
いつの間にかその人の首に自らの腕を絡めていたらしい。鼻先が男の子特有の匂いがする黒髪に触れていた。

「猿比古、くん?」
「チッ、起きたのか」
「起きただけで舌打ちしないでよ……。 あの、どうしてわたしは猿比古くんに救出されているのでしょう」

自分をおぶっている人物が仲間の猿比古だと気付いた瞬間、いろはの胸に安堵が広がると共に、どうして彼が、という疑問を抱く。
猿比古は確かに吠舞羅の仲間だけれど、無愛想で決して自分から味方を助けるようには見えなかったのだ。

「またいろはが一人で勝手に喧嘩買いに行ったって聞いたからだよ」
「え、聞いたの……っ、誰にバレたんだ……尊さん、はないだろうし……草薙さん? ううむ」
「助けてやろうと思えば本人は眠りこけてやがるし。看病してやったんだ感謝しろ」
「あ、え、これ、猿比古くんが……?」
「チッ、俺以外に誰がいるんだよ」
「また舌打ちした」と苦笑するいろはの右太股には確かに巻かれた布切れがあった。かなり血が滲んでいるが、きつく縛ってあるからか、すでに止血はされているようだ。
いろはは記憶を遡ってみる。
吠舞羅に恨みをもつチンピラに呼び出されて、わざわざ複数で行く気も起きず、単独で乗り込んだ。やはり相手は所詮数に物を言わせようとした弱者だったし、多少の怪我はすれども一人残らず倒せ……る、はずだったが。
最後の一人を地に伏せさせる一撃を食らわせようと足を振りかぶったそのとき、唐突に飛んできたナイフが右太股に深く突き刺さったのだ。気絶させたと思っていた輩が最後の力でも振り絞ったのだろうか。

とにかく、油断していたいろはが悪かった。結局最後の1人にあっさり逃げられたのに、追うことも出来なかった。
出血と痛みのせいでその場を動けずに、壁に背をもたれて気を失ってしまったのだ。

「我ながら……なんて失態」
「ほんとにな」
「うう」

普段なら食ってかかるところだが、今回はそうもいかずにしゅんと肩を竦める。
猿比古に迷惑をかけてしまったのは確実なのだから。

「ごめんね」
「……いろはが殊勝になると気味が悪い」
「ひどい言い様だなあ」

未だ鈍く痛む身体だが、いろはは、猿比古の言葉が今だけは心地好くて、怒られると知りながらもその首元に顔を埋めた。
しかし、予想外にも猿比古はこれといって文句を言わない。

「今日の猿比古くん、やさしいね」

返される言葉はなく。
軽い貧血と、珍しく優しい猿比古と、揺りかごの中みたいな揺れと、安心感。
「ありがとう」、囁いたいろはは、ゆっくりと再び眠りに落ちようとしていた。思い浮かぶのは、バーHOMRAの皆。多々良は心配して一番に声をかけてくるだろうし、草薙には呆れられつつもお説教を食らうだろうし、美咲にはまたばかにされるに違いない。ああ、でも。

一緒に吠舞羅に帰ろう、猿比古くん。

いろはは幸せそうに微笑んで、重い瞼に抵抗するのをやめた。



「……眠ったのか」

首筋にかかる息がそれと分かり、猿比古は呟く。予想していたよりもずっと軽いいろはの身体はくたりと猿比古にもたれかかっていた。
猿比古は長い溜め息をつく。少し俯いて目に入ったのはいろはの右股。自分のシャツの一部から、彼女の血が滲んでいる部分。
縛るとき、傷が随分深かったことを思い出す。

「ったく、あんまり勝手なことするなよ」

それから、笑み。


「お前を傷付けるのは、俺だけなんだから」
彼の懐からは、落としきれなかった血がこびり付いた、ナイフが見え隠れしていた。






目を見開いて、鋭く息を吐き出し、傾いたのは、わたしの方だった。

「な、んで」
「なんで、だって? なあいろは、本気で思ってたのか、俺と対等に渡り合えるって! お前は変わらないな、いつでもばか正直に自分が正しいなんて信じてる。ほら見ろよ、結果がこれだ、俺を信じようと隙をあげたばっかになあ?」
「さる、ひこ……くん」

意識が朦朧とする中、鈍く痛みを送ってくる脇腹に目をやった。そこには、動かせるはずがないと思っていた彼の左手と、銀のナイフ。そこからどくどくと血が溢れだしている。
喉から生暖かいものが迫り上げてきて、わたしは口端から血を流した。立っていられず前に傾いたわたしの身体は、猿比古くんに支えられる。

「安心しろよ、殺す気はない」

わたしたちは、敵だ。
わたしは、抵抗しなくちゃいけない。なのに、その腕は優しくわたしを抱き締める。安心なんて出来ない。それなのに、意識ばかりが重くなって、ついに身体の力が完全に抜けた。

「……うそだ、猿比古くんは、……ほんとは、やさしく、て」

視界が、閉じてしまう。
なんとか開こうともがく内に、いつの間にか足が地についていないことに気付いた。猿比古くんに、横抱きにされている。
ああほら、やっぱり優しい。そうだよね、猿比古くん。
警報を鳴らす頭も、もうぼんやりして何がなんだか分からない。

「行くか」
「そ、だね、かえろ。吠舞羅に」

歩き出した猿比古くん。その揺れに落ちる意識の中、最後に見たのは冷たい笑み。
それは、どういう、意味なの? 猿比古く、……ん。


「おやすみ、いろは」


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