適わないな。
いろはは心の中で吐き出す。
ビルに反射する赤い陽が眩しい夕刻、いろはと草薙、バーへの帰り道でのことだった。
何を話すでもなく、しかしその空気は耐え難いものでもなく。通り過ぎる人々の話し声と雑踏がBGMの中を歩く。
いろはが、試しに人混みに紛れてみようと歩調を緩めてみたのだ。しかし右側の草薙は何も言わずにいろはの速さに合わせてきた。
なんて気の効く人なのだろう。ちらとそのかんばせを覗き見たが、彼は真っ直ぐ前を見るばかり。それなのにいろはの頬ばかりが熱くなるものだから、いろはは仕方なく目を逸らしたては心の中に呟きを落としたのだ。
本当に、このひとには適わない。
しかし不意に、もしかして、と心のどこかで期待が芽生える。
彼の右手にはゆらゆらと煙を燻らせる煙草。
人混み、彼とは大きく違う歩幅。空いた彼の左手と、自らの右手が揺れる。察しのいい草薙なら、いろはの期待がもしかしたら伝わるのでは、なんて。
「……っ」
その一瞬、指先が触れた。
いろはは思わず目を瞑る。しかし、その手は握られなかった。本当にたまたま触れてしまっただけだったのだろう。拍子抜けだ。
いろはは期待した自分を恥じ、勢いよく顔をあげた。
「ご、ごめんなさい!」
「ん? どないしたん?」
「え、あ、えーっと……その」
「さては、まーたなんかやらかしたことでも思い出したん? 正直に言い、今なら許さんこともない」
「実は……って違! なっなんでもないです!」
うっかり柱に傷をつけてしまったことを危うく露呈しそうになったが、慌てて取り消した。あれはまだ隠しておくべきだ。
草薙はいろはの慌てる姿に疑いの目を向けるが、本人が言わないのならばといった様子で「ならええけど」と再び前を向いた。いろはの歩調に合わせたままで。
一方いろはは、あっさり会話が終了してしまったことを悔いていた。何か話題はないだろうか。草薙さんと話していたい。今日の夕飯のこと? 明日の予定? 草薙さんの過去のことでも探る?
「あの、」
ぐるぐると考えた末にやはりあの話題を振ろうと顔を向けたのだが、草薙が全くの無反応だった。怒ってる、もしかして怒っているのか。柱のこと、本当は知っていたんじゃ……、
草薙は、サングラスの隙間から横目でいろはを見下ろした。
「……?」
それから、その視線は後方に向かう。いろははそれに吊られて振り返ろうとするが、緩慢にわざとらしく煙草を吸った草薙が言わんとしていることをなんとなく理解して、急いで前を向いた。
何者かに、つけられているのだ。
「青やないな」
ぼそりと放った呟きをしっかりと聞き取る。青……セプター4でなくても、チームの性質上、私怨なんて幾らでも向けられている。おかしなことではなかった。
でもつけるなんてせこい真似を。
「潰しましょうか」
出来るだけ抑揚を抑えたいろはの声にしかし、草薙は返した。「いや、あちらさんは俺らが吠舞羅ってことを確信しとるわけやないな。多分、半信半疑っちゅうとこやで」。
ならば、どうする。このままバーに帰るべきではないというのは確かだが、この人混みで唐突に走り出すのはむしろ相手にこちらがそういう存在だと確信を与えてしまう。穏便に、撒かなくては。
草薙はポケットから携帯灰皿を取り出して吸い殻をねじ込んだ。それから、一瞬。
「ひゃっ!」
ぐん、と片腕を引かれたかと思えば、いろはは路地の影に引きずり込まれた。こんなにあっさり相手に捕まったのか。
いや、草薙の察知力はそんなものではないはず、といろはは混乱する頭のまま腕を引いた犯人の顔を見上げた。
しかし、それはまさに草薙その人だったのだ。
「く、草薙さん、どうし」
「黙っとき。それと、」
「少し動かんといて」。不意に肩に手を乗せられたかと思うと、草薙は腰を少し屈めていろはの耳元で囁く。言われずとも、いろはは硬直したまま動けなくなった。
「ええ子」
顔を離してその様子を見た草薙は、少し微笑む。短い言葉のはずなのに、いろはのただでさえ緊張であがった心拍を限界まであげた。それからいろはの視界が彼でいっぱいになる。それは、比喩ではない。
「……!?」
キスをされていた。
驚きに目を見開いたのを、もう一度口付けようとしたらしい草薙は見て取った。
鼻先が触れ合う距離で、彼は言う。「こうしとったら、敵さんも俺らをただの恋人やと思うで」。
「だ、だからって……っ、んっ」
続けかけた言葉は、強制的に阻まれた。何度か角度を変えられるうち、いろはは瞼を閉じる。草薙にキスをされている。それだけでいろはは、もうどうなったっていいと思え「……ないっ!!」
「ったいなあ。何しよんねん、いろはちゃん」
はっと我に返ったいろはが草薙を突き飛ばしていた。恥ずかしさの余りの反射というのがほとんどだったのだが、突き飛ばされた草薙の反応に、いろはは赤い頬を更に赤くさせ、ついには耳まで一色にした。いろはちゃん、いろは、ちゃん。いろはちゃんだって。
「いろはちゃんって誰ですかわたしですか」
「ちゃうんか? いろはちゃん」
「……っ、う、や、やめてください草薙さん! 逃げましょう、こここんな小細工通用しないですって!」
いろははまくし立てて、草薙を通り越して早足で路地裏を進もうとした。「おっと」。しかしすれ違いに聞こえた声と共にまた腕を捕まれる。それでも振り返りたくないいろはは無駄な抵抗と知りながらも必死に足を前に出そうと試みた。
「まあまあそう怒らんと」
「おお怒ってません! それより速く逃げないと例の奴が」
「そんなに俺のキスが嫌やったんか」
ぴたり。困ったような草薙の言葉に身体の動きを止めるいろは。どうやら返答に迷っているようだ。
いちいち律儀に答えんともええのに、と心中呆れながらも、草薙はまんざらでもない様子だった。
再び彼女を引き寄せ、今度は抱き締めてみせる。細い身体。いつも吠舞羅の一員として男とも引けをとらない働きをしているいろはは、それでもやはり少女なのだと思い知った。
「俺のこと、ずっと意識しとらんかった?」
「……う」
「ほんと、分かりやすい女の子やね。簡単に手玉にとられてまいそう」
「そ、それは!」
腕の中で、いろはは身体を反転させた。その拘束は強いものではなかったが、逃げない理由なんてひとつだけ。
「相手が草薙さんだからで、あっ……て」
「はは、珍しく可愛らしいこと言いよるな」
「わっわたしは! 草薙さんのことが、」
「嘘」
いろはが言い終わる前に、草薙は遮った。勢いを削がれたいろはが草薙を見る。なにが?。小動物のようなまんまるの瞳が、そう問うていた。
「つけられてるっちゅうやつ」
「え? ……え、どうして突然そんな嘘」
「いろはが手を握りたそうにしてるのが、かわいくてしゃあなかったから。つい」
「ついってなんですかついって! っていうか気付いてたんですね、わた、わわわたしちょっと本気にして」
「あと」
また真っ赤になったいろはの言葉と被せるように長い言葉を付け足して、草薙はもう一度唇を寄せるのだった。「『珍しく』可愛いってのも嘘。いろはを手玉に取りたいのは俺やし。つまり」。
「好きやで、いろは」
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最後の言葉を聞きながらゆっくり瞼を瞑ったいろはは、心の中に呟いた。
本当に、このひとには適わない。