「アンナ、いろは見いひんかった?」
「……」
「そか。ったく、どないしよんねんこれ。こっちはいいとしても、いろはのこれはバーの内観に合わんっちゅーのに」
「いろは、たまにそれ、大事そうに見てる。捨てないであげて」
「……ああ、なるほどなぁ」
Three years ago
「お、もっ!」
草薙に頼まれていたおつかいを済ませたいろはは、バーの扉を開けようとした。というのも、両手が塞がっていて手では開けられなかったのだ。
「……ふぬぬ」
身体全体でそれを押そうと体重をかけた。すると、聞こえてきたのは拍手喝采の音。
「いやあ、あはは、ありがとう! わたしもやれば出来る子なの分かってくれた!? いくら理不尽なじゃんけん奇跡の一人負けにも、まさか結局本気で女子一人で行かせる仲間の酷さにもめげずに!」
いろはは、自分が息を切らしながら帰ってきたのに感動して、皆は自らを反省し、拍手喝采したものとばかり思い込んでいたのだ。
「はあ? お前じゃねーよ」
「んなっ」
しかしその幻想は、美咲によってぶち壊された。
そういえば、皆の視線はいろはに向いていない。
「いろはーおおきにー」
カウンターの向こうからひらひらと手を振る草薙。
いろはは肩を落とした。このひとたち、やっぱり全然反省してない!
頬を膨らませながらそれでももう一度重たい袋を抱え直し、草薙の元へ向かおうとする。
「ああ、いろは、おかえり」
「た、だいま、です……っ、多々良、さんっとっ、アンナちゃん!」
「おかえり」
何やら未だにざわざわと騒がしい男たちの中をカニみたいに怪しい歩き方で抜けた先に、ギターを肩に提げる多々良と、そのすぐ傍にアンナがいた。
「って、うわ、何その荷物。持ってあげる」
ごとり。ギターをカウンターに置いた音の後、不意に片手が軽くなる。いろはははっとして顔をあげた。
もう一個貸して、のジェスチャーをよこしながら微笑んでいるのは、多々良だったのだ。
「うう、多々良さんいい人!」
片方持ってくれただけでも充分です!
そう伝えると、多々良は少し首を傾げて微笑んでから、カウンターの向こうへ歩きだした。いろはも続くことにする。
「これここでいい?」
「なんや十束、ポイント稼ぎかいな」
「そんなんじゃないって」
「そんなんでもわたし大歓迎ですよ!」
「ほれ言わんこっちゃない。甘やかすと調子に乗るで」
「いいんだよ、いろははおつかい行ってくれたんだから。調子に乗る権利がある、よね?」
「くうっ、多々良さんだいすきーっ!!」
今度こそ自由になった両腕で多々良に抱き付く。「うわっ」とよろけながらも、多々良は文句を言わなかった。
「にしても残念やったなあ、十束の生演奏聴かれへんのは」
「生演奏? あ、さっきの拍手ってもしかして」
「お陰様で大好評いただきました」
ブイサインを示す多々良と、カウンターに置かれたギター。それからこちらをじっと見つめるアンナを交互に見比べ、数秒。
「えええええ、ずるい!! なんだそれ理不尽だ!! わたしも聴きたかった!」
「いろはの自業自得だろ」
「わけわかんない事言わないで美咲ちゃん! 7並べで8止めしてやる!」
「6止めで返してやるよ!」
ばちばちと火花を散らすいろはと美咲の間に、多々良は「まあまあ」と介入した。
二人ともまだ何か言いたげに口をぱくぱくとさせたが、「あんまり喧嘩してると、尊に怒られちゃうよ?」なんて言われては、二人で視線を逸らすしかない。
「タタラ」
アンナが間に入った多々良の服の袖を引っ張った。
「ねえ、もう一回歌って」
「アンナちゃんもそう言ってるし、わたしのためにもアンコールお願いします!」
「とは言ってもあの歌くらいしかレパートリーないしなあ」
「じゃあアレンジしましょうアレンジ」
「アレンジ?」と首を傾げる皆に、いろはは自慢げに鼻を鳴らしながら、バーの隅からずりずりとあるものを引っ張りだした。
「すぐそこで粗大ゴミ置き場にあったんですけど、持ち帰るのは気が引けたのでここに……よいしょ」
「なんやそれ、そんなんここに隠しとったんか!」
「置かせて貰ってました」
えへ、と誤魔化すように笑ういろはが多々良の隣に置いたのは、キーボード。
「へえ、いろは、キーボード弾けるんだ」
「お遊び程度ですけどね」
「まじかよ……」
美咲に一瞬にやりと意地の悪い笑みを見せてから、「コンセントどこですかー」とプラグを片手に四つんばいになる。
草薙は盛大な溜め息をひとつ、仕方なげにしゃがんではプラグをひったくった。「ここや、ここ」。
「よしよし、音は鳴るみたい」
「最初はこのキーからなんだけど……」
「あ、分かりました。じゃあこんな感じで、」
ギターを抱え直した多々良といろはは向き合い何やら話し込むが、美咲たち構成員には彼らが何をしているのか今いち分からない。
しかし尊は壁際で一人、多々良といろはに視線をやっては再び目を閉じた。
「うん、ここからは多分いけます」
「ほんと? 流石いろは、センスいいんだね」
「お世辞言っても何も出ませんよ!」
「まさか」
二人は微笑む。
すると、そわそわと落ち着かなかったバーの中に静寂が訪れた。空気が変わる。アンナは元々大きな目を丸くさせた。
「いくよ」
「はい」
カウントは要らなかった。目を合わせた多々良といろはが、息を吸うだけ。
再び、バーに音楽が満ちる。先と違うのは、その音色が、歌が、ひとつではなくなったこと。
harmony
3年前から変わらず、バーの片隅にひっそりと仲良く並ぶギターとキーボード。それをじっと見つめるアンナ。
草薙は、静かに煙草の煙を吸い込んだ。