人生なんてものは、万歳をする回数よりも頭を抱える回数の方が多い訳で、今日の三成もまたそれに然りだった。
日が西から鋭く射す頃、ホームルームが学校の終わりを告げる。
珍しく一日機嫌のよかった吉継との下校の時間だ。三成にとって、一日にあるイベントの中でも三本の指に入る重要なもので、吉継の機嫌がよかったのだから尚更だ。
寄り道の約束もしっかりとしていた。
浮足立って吉継の机に向かおうとした三成の背に、担任教師の声がかかった。
「石田、選挙管理委員だったよな、委員会があるから今から会議室に集合だ」
はて選挙管理委員、三成は考えて顔が青くなった。
それは何ヶ月も前に成り行きで決まった係だ。
委員なんてのは名目だけで、やることなんて大抵決まった形式があるのだから、不要だとは思えど、三成には断る理由がない。
それから、三成は肩を落として、吉継との約束を解きにいかなければならなかった。
しかし、頭を抱える不運があるから、そこに下りてくる希望を幸と感じることができる。
三成が血の涙でも出そうな程悲痛に、吉継へそのことを述べ、共に下校することが出来ないと伝えると、吉継は実にあっさりと言った。
「ならば、われはみつなりを待っているゆえ、みつなりは焦らず委員会にいけばよい」
吉継は柔らかく笑む。
まばゆい光が射す。
三成は吉継を抱きしめたくなった。
そして今、三成は必死に三階までの階段を二段飛ばしに上っていた。
窓の外は校舎の伸びた影で暗くなっている。
静かで薄暗い廊下、そこに響くのは三成の足音だけだ。
吉継は図書室で待っていると言っていた。
そこで吉継がひとり自分を待っていると思えば、居ても立ってもいられなく、しかし叫びだしたいくらい嬉しくもある。三成は気分が高揚していた。
残り一直線の廊下は全速力を出した。
図書室の扉前へと滑り込みブレーキをかけると勢いよく扉を引いた。
中はしんとしている。
三成は肩で息をする。酸素が足りないのか、声が中々出ない。
「――よしつぐ!」
しかし、部屋は静まったままだ。
「…よしつぐ?」
二度呼べど、返事はない。
三成は心配になりながら、図書室へ入っていく。
そろそろと歩けば、板張りが軋む。カウンターを見渡し、本棚の間を覗くが、吉継はいなかった。
薄暗い図書室の中、もしかすると帰ってしまったかもしれない。三成に不安が過ぎる。
三成は落胆しながらもぐるりと室内を巡る。談話ブースに近付いたところ、そこに置いてある長椅子型のソファに黒い影があった。
はっとして近付けば、それは横になって寝ている吉継だ。
三成を待つのに疲れて寝てしまったのだろう。それか元々寝て待つつもりだったのかもしれない。
どちらにしても、三成は遅くまで自分のことを待っていてくれた吉継に、胸が熱くなる。
ソファにそって仰向けに寝ている吉継に三成は近付く。図書室の入口からはソファの背もたれが邪魔で、吉継が見えなかったのだ。
三成は、安心してはっと息をつくと、吉継の前にしゃがむ。
吉継はいまだに寝息をたてている。
吉継は幼い頃から体が弱かったが、食欲と睡眠欲だけは驚く程強かった。
それを見てきた三成は、吉継が簡単には起きないことを知っている。
そして目の前には安心しきって眠る吉継の顔がある。
何より、三成はいつになく気分が高揚している。
そして、薄暗い図書室にふたりきりという日常から少し離れた空間。
それは、まさに魔がさすという状況を作るのに最適であった。
静かに吉継を見つめていた三成は引き寄せられるように、吉継へそっと顔を寄せる。
どくっと心臓がなった。かさついた唇を噛み締める。
左手はソファの背もたれに、右手は自分の胸元のシャツにやり、強く握りしめていた。
向かい合う顔は鼻が触れてしまいそうで、三成の心臓が騒ぎ出す。こんな近くに吉継を感じたことはなかった。
漏れる息を殺して、心臓を叱咤して、三成は吉継へとゆっくり下りていく。
僅か先に体温を感じる。
そして、ぱちりと瞼が開いた。
三成は一体何が起こったのか理解出来なく、そのまま静止する。
「…みつなり」
思った以上に鮮明な声で、吉継がそうゆっくり話すと、温かな息が三成の口に当たる。
その途端、三成はひっくり返るように後ろへ倒れ、したたかにテーブルへ頭をぶつけた。
吉継はその音に驚いたようで、びくっと跳ね、一気に覚醒していく。
「…よし、つぐ」
吉継が見つめると、三成は顔をまっ赤に染めていた。頭をぶつけた痛みも感じないようで、ただ混乱して体を震わせる。
吉継は体を起こす。手は三成が触れようとしていた唇に当てていた。
「みつなり、われになにを」
落ち着いた様子でそう問いかける吉継だが、三成は責められているように感じ、泣きそうになりながら何度も謝った。
「すまないっ、よしつぐ、私は、まさか、こんな、こと…」
すまないすまないと、三成は謝り続ける。顔をぐしゃぐしゃにした三成は、何かを恐れるようだった。薄暗い図書室の中、三成は泣いているのかもしれない。
「よしつぐ、頼む、から、私のことを、嫌うな…たのむ、二度とこんなことはしない、から」
もう無理だと三成は息が止まりそうな程後悔した。
拒否されると思うと、酷く惨めな気持ちになる。
しかし、吉継はぐしゃぐしゃになった三成に手を伸ばした。
「…われとぬしはともだちよ」
吉継は何ともなく、そう言う。
「われはみつなりを嫌わぬ、その行為は厭うが」
吉継は三成の頭を優しく撫でた。
「みつなりが悪いと感じているなら責めぬ、われはみつなりが大事よ」
三成は驚いた。恋に対してあれ程に嫌悪を示す吉継が、機嫌を崩さないのだ。
生理的な嫌悪を抱かれてもおかしくはないのに。三成はぽかんと吉継を見つめる。
「…私のことを気持ち悪いと思わないのか、もう言葉だけでは済まなくなったのに」
少しだけ声が震えた。
「みつなりを嫌だと思ったことは、われは、一度としてない…しかし、ぬしが抱く思いは嫌いよ、それは欲のまやかしゆえ」
吉継は、夕日に照らされたわけでもないのに、顔を赤くさせ、俯く。
「まさか、みつなりは、このことでわれと離れようなどとは、思っていないであろうな、われとみつなりはずっとともだちよ、ずっとずっとともだちのままよ」
吉継は言い切ると、ソファから落ちるようにして三成へ体を寄せた。
手は三成のシャツを握りしめ、三成の首もとに頭を埋める。
三成は、学校指定のシャツの上に吉継の体温を感じた。
「…寝ていたら、寒くなった、ゆえ、あたためよ、待っていたのだからこれくらいよかろ」
腕は回せず、三成はただ頷く。
吉継の匂いに目眩を起こしてしまいそうだった。
そしてその体温に、鼓動が速くなる。
吉継には筒抜けだろう。その恥ずかしさがより鼓動を大きくする。
自分を落ち着かせるように、三成は大きく息を吸う。
「――よしつぐ、私とよしつぐは友達か」
吉継は三成の中で、頷く。
三成は静かに目を閉じた。
友達はこんなことはしないんだと、たったそれだけの言葉が出てこなかった。
三成はぼんやりと吉継を介して、半分は天井の図書室を眺める。
ソファが邪魔して、入口からは二人は見つけられないだろう。
吉継が自分へと寄せる想いなど、三成はずっと前から解っていた。
それを吉継が認めたことはなかったけれど。
「――ごめん」
呟けば、吉継は震えた。