愛してるなんて


こそり、こそり、こそり。
抜き足、差し足、まるで泥棒のようにこそこそと廊下を歩く。仮にも親戚の家の筈なのに、私は此処を堂々と歩く事が出来ない。
許されてはいないし許されてはいけないのだ。

本当ならこうしてこそこそと歩く事だってダメだしむしろ入っちゃいけない。でも今日ばかりは我慢出来ない。こんなわがままな自分で我が君に申し訳なくて申し訳なくて仕方ないけれどどうかお許し下さい、我が君。今日だけはお許し下さい。

静かに静かに、音を立てないように昔作りの襖を開く。あぁやっと会える。どれだけぶりだろう。私の、私の―

―大好きな咲羽様。

正獣基の彼を起こさないように細心の注意を払う。息をする音でさえ敏感な彼には気付かれてしまうかもしれないから自分のできる限り最小に小さく小さく息をする。

大好きな咲羽様。

美しく美しく成長されると共に遠く遠くなってしまった大好きな咲羽様。
咲羽様が正獣基となり、愛譚に行ってしまってからどれくらいの時が経ったのだろう。彼との繋がりが我が君の様子を聞く手紙だけになってからどれくらいの時が経ってしまったのだろう。

たった一人の正獣基を決める為に戦い競った記憶が蘇る。親戚だろうと友人だろうと関係ない。我が君を護る為に産まれた私達はそうする術しか知らず、戦い競い血を流した。
年下の弟妹のように可愛がっていた子も、兄姉のように慕っていた人も、双子のように分かりあっていた同級の者達も容赦なく切り捨てるしかなかった。
私達には我が君が全てだから。

我が君の為なら誰だって迷わず切り捨てる、切り捨てられる。そう信じて止まなかった。
でも、獣基争奪戦の時私は咲羽様を切り捨てられなかった。
皆が言うように強さも覚悟も全く格が違う咲羽様が皆を切り捨てて行くのを、何処か他人事のように見ていた。

その時にやっと気付いたのだ。自分が咲羽様に特別な感情を持ってしまっている事に。我が君への感情とは違う大切な大切な心。でも抱いてはいけない心だった。

皆は我が君に「合わせる」顔がないと言うけど私はそれどころではない。
罪の意識はある。我が君をお守りする筈の、我が君に捧げる筈の身で何をしているのだと。それでも抑えられなかった。

―咲羽様を好きになる気持ちを


「何やってんだよ。」
「―!」

叫びそうになった声を慌てて押し殺す。起きていらっしゃったのだ。やっぱり正獣基の彼に気付かれずなんて無理だった。
でも一目だけでも彼を見たかったのだ。

「何か言えば?」
「申し訳、ありません。」
「別に謝れなんて言ってねーよ。」

やはり私のせいで起こしてしまったらしく布団から起き上がってから咲羽様は、寝ぼけたような表情のままそう言った。

「咲羽様がお帰りになられたと聞きましたのでつい、」
「つい?」
「その無礼とは分かっていたのですが、どうしてもお顔を拝見したくて…」
「あーもうかたっくるしい喋り方してんじゃねーよ。大体俺はいつからお前に咲羽様なんて呼ばれるようになったんだよ?」
「それは、その、」
「お前は俺に会いたかったから来たんじゃないのかよ。」
「それは、もちろんそうです。」
「じゃあそんな喋り方も咲羽様なんて呼ぶのもやめろ。」

こんな風に咲羽様とお話するのはいつぶりだろう。こんな話し方になって咲羽様と言いはじめたのはいつからだろう。こうなる前はどんな風に咲羽様と接していたのだろう。

「お前は何を思ってんだよ、何があったんだよ。」

私をこうさせるのはきっと罪の意識。我が君を裏切っているようなそんな気がして。だって何度も思ってしまった。もし、猿の家に産まれていなければ、なんて。最低の臣下だ。

「私は獣基争奪戦で敗した身ですから。」
「…お前の君は祐喜だろ。俺は関係ない。」
「ですが。」
「だから普通に話せ、咲羽って呼べ、あと、面を取れ。」
「いけません!そんな事…」
「俺を見ろ。」

そう言われ顔を上げた先に在ったのは整った咲羽様の顔。開いたビー玉のように透き通る瞳に写るのは悲しみの色。私が、そうさせている?

「ごめんなさい。」
「こっち来い。」
「はい…いえ、うん。」

一歩一歩咲羽様に近付き咲羽様の前で座り込む。こんなに近くで咲羽様を見る事が出来たのはいつぶり?

静かに伸びてきた白い指にビクリと肩を竦め、思わず瞳をぎゅっと閉じる。

「瞳、開けろ。」

そう言われ、静かに瞳を開けた瞬間映ったのはいつもよりクリアになった視界。咲羽様の少しだけ微笑った顔。
慌てて自身の顔に触れ、面がない事に気付く。

「咲羽様!」
「咲羽。」
「…咲羽、面を、返して欲しいです。」
「やだ。」

そう言って咲羽様…咲羽は悪戯に、嬉しそうに笑ったから何も言えなくなった。だってこんなに嬉しそうに笑う咲羽を見るのは久しぶりだったから。

「俺の前ではそのままでいろ。」
「咲羽…。」
「そのままで、いてくれ。」
「…うん。」

まるで過去に戻ったかのような時間。何も知らなかったあの頃に。何も知らず名前で呼び合い笑い合っていた頃のように。本当はずっとあの頃のように戻りたかった。

「咲羽。」
「なんだよ。」
「ありがとう。」

そう言って昔のように笑うと咲羽も昔のように笑った。



してるなんて求めないから
(せめてもう少しだけこの時間を)












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