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 目の前に座る男は、こちらの不躾なほどにじっと見つめる視線に気が付かないのか、それとも気が付いていない振りをしているのか、とにかく視線をテーブルに置かれたコーヒーへと注ぎ、スプーンでくるくると砂糖を溶かしている。優しい手つきで扱われるスプーンは、ダークブラウンの海に渦を描いている。その男の人の割には色白で繊細な指に、触れられたことがあっただろうか。もしかしたら一度として彼と身体的な接触を持ったことなどなかったのかもしれない。記憶を辿らなくとも鮮明に思い出せる、学生服を着た臨也。聡明な瞳で意地の悪い笑みを浮かべる彼は、目の前の彼よりずっと幼い顔立ちをしている。ぼんやりと昔の面影を思い出しているうちに、幼さの残る臨也の顔の上に大人になった現在の臨也の顔が二重に重なってとうとうひとつの顔へと変わっていった。視線を落としていた臨也がこちらを見据えたからだ。涼しげな目元から光線のような視線を投げられて吸い込んだ息は行き場を失くした。

「そんなにじっと見つめられると穴が空きそうなんだけど」
「ごめん」
「冗談だよ。謝らなくていいって」

 笑いながら、臨也はコーヒーに口をつけた。嚥下すると下がる喉仏に、彼が “男の人”なのだということをどうしようもなく思い知らされる。どちらかと言えば饒舌な人間に分類される臨也がこれほどまでに押し黙るのは学生時代の頃からだったけれど、居心地が悪いような、悪くないような、妙な心地がしていたのを思い出す。当時は話題の途切れないカップルが不思議でしょうがなかった。わたしと臨也と言えば互いが互いに興味がないのか、会話らしい会話をした記憶がない。ならば何をしていたのかと問われれば、ただその場に一緒にいて時間と空間を共有していたこと以外に答えを見つけられない。可笑しなことだけれど、彼とわたしは交際をしていたのだ。
 学生時代に付き合っていた男女の再会だというのに感動もなければ感慨もない。駅からほど近い手頃な喫茶店に入って温かみのある木製のテーブルを挟んで座ると、全身を黒で纏めた臨也がひどくアンバランスに映った。「久しぶりに会ったけど全然変わらないね」「折原くんもあんまり変わらないね」などとありふれた文句を口にしてお茶を濁す。変わらないとは言うけれど、実際の彼はずっと大人びたし、どきりとするほど美人になった。異性に対する形容詞として“美しい”という語句が適切なのかは疑問だけれど、棘を内包した薔薇のような趣が臨也には存在するのだと感じる。その毒性が強められたが故の、美しさ。彼はきっと、変わらずに危ない橋を渡り続けているのだろう。
 昔話をするんだけど、そう前置きをして臨也が口を開いた。

「みょうじさんはさ、俺のどこが好きだった?」

 あまりに直球な質問だった。有耶無耶さがアイデンティティと言わんばかりのわたしたちの関係を、臨也はいとも容易く壊そうとしている。手にしたティーカップが動揺に揺れて、中の紅茶が波を立てた。口もとは大きな弧を描いているのに相変わらず射るような視線を送りながら、臨也はにこりと含みのある笑みを浮かべていた。わたしの核心を突いて心を乱そうとしているかのような、狡猾な手段だ。言葉に詰まったのは好きと言えるところが無かったからではなくて、その逆だ。ひとつだけ、数年の時を経てすっかり沈静化されたはずの衝動に突き動かされてしまうような、秘めた思いがある。それを口にするかしまいかを逡巡して、沈黙を紡いでしまった。アールグレイに映ったわたしが「言ってしまいなよ」と目で訴えている。

「二年の秋にさ、放課後の教室で会ったときのこと、覚えてる?」

 季節が秋だと明確に思い出せるのは、長袖の制服に身を包んでいたことと、燃えるような夕日に染められた教室があまりに鮮明だったからだ。自分の影が足元に伸びる廊下を歩き、教室へと向かっていた。慣れた足取りで教室の前までやって来ると、誰もいないはずの教室に荒い息が響いていた。不審に思いながら足を踏み入れれば、入ってすぐ右手に、入り口のドアに寄り掛かるようにして男子生徒が苦しげな息を吐いていた。彼を見下ろすわたしと、わたしを見上げる彼。その視線が絡みついた瞬間、けたたましく廊下を滑走する音が響いた。大きな身体を揺らしながら、恨めしそうな声で誰かの名を呼ぶ男子の姿を視界の端に捉えて、わたしは呆気にとられてしまった。混乱して瞬きを繰り返すわたしは無意識に彼に縋るような視線を送った。どうすればいい?目で訴えるわたしに、彼は長い人差し指を唇に当てて密かに息を吐いた。夕日に赤く染められた横顔と、妖艶な手つき。思えば、その瞬間恋に落ちたのだ。

「あのとき思ったの。この人をわたしのものにしたいって」

 それから後、どうなったかを覚えていない限り、わたしはあの一瞬だけを心に焼き付けていたのだろう。どのようにして臨也と付き合うのかに至った経緯でさえ、その一瞬に比べればおぼろげで些末な出来事だった。瞼の裏に焼き付いた、色褪せない恋心。何人にも侵されぬわたしだけの臨也だ。
 目の前に座る臨也はというと、ぽかんと何が起きたのかわからない顔をすると、一拍置いて喉鳴らして笑い出した。何の含みもない、おもしろいという単純な理由から生じる笑いに身を任せて息も絶え絶えにわたしに言う。

「正直に言って驚いたよ。君からそんな情熱的な台詞が聞けるなんてねえ。やっぱり今日は誘って正解だった」

 臨也は大げさに身を反らせて笑い声を漏らした。予想を大きく裏切るような突拍子のない返答に満足したのだろう。ひとしきり笑った後、ぐっと顔を近づけて意地の悪い顔をつくった。

「結局のところこうして別れてしまった今、俺は君のものにならなかったわけだけど」

 人を絶望に陥れるような声音で、突っぱねる。他者との距離の測り方を熟知している臨也らしいやり方だ。細められた目は冷ややかで、浮かべた笑みはうすら寒い。あの手この手で人を嘲り、憤慨させ、闇へと陥れる。せっかく縮めたと思われた距離も、瞬きひとつの合間に遠ざかりとうとう姿さえ見えなくなる。伸ばした手は空を切り、与えられた温もりはひどく冷え冷えとしている。自らすすんで孤独になるのか、気づいたときにはひとりなのか、実体の掴めぬ人物に恋をするなどと苦しいに決まっている。だから、そんなことは百も承知で恋に落ちた。

「あのときの折原くんはわたしの中でずっとわたしのものだから」

 いくら年月を経ても変わらない、あの頃のままの臨也がそこには居て、今も息づいている。その瞬間の臨也は、ずっとわたしのものなのだ。
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