「ねぇ、折原くんはさ、」



夕方の美術室。机の上に並べられた石膏の胸像たちは、夕日を反射して橙に色を変えていた。ミロのヴィーナス、ブルータス、メディチ、アグリッパ。こうも揃えて並べられると、まるでいつの時代かの刑場のようで居心地が悪かった。そんな胸像たちをデッサンする彼女は、まるで彼らの介錯人のようだ。差し詰め俺は、それを目の当たりにした町民か。彼女はそれらを順番に、さらさらと大きめのスケッチブックに描いていく。一列に並べられた右端にあるミロのヴィーナスをスケッチしているところからすると、どうやらこれがラストのようだ。



「ミロのヴィーナスの両腕、どんな動きをしてると思う?」



鉛筆を持つ手は休めず、目は胸像とスケッチブックを交互するだけで、彼女は何事もないように問う。



「発見される前、腕を失う前、ヴィーナスは両腕で何を表現していたのかな」

「林檎を持ってる、っていうのが有力な説じゃなかったっけ」

「黄金の林檎ね」

「そう、トロイア戦争の」

「それが一番有名な考えよね」

「君は違うのかい?」

「うーん、違うって訳じゃないんだけどね。まあでも、そんなことを考えるのは酔狂ね。いつか読んだ本にあったわ。両腕の欠落が、想像力による全体への飛翔を可能にしたんだって」

「へぇ。言われてみればそうかもね」

「でもヴィーナスは可哀想よね。腕が無いのがいいみたいに言われて。まあ確かに美術品としては素晴らしいけれど、彼女は何か大切なものと一緒に、ギリシアの海に両腕を落としてきてしまったのかもしれないじゃない?」




鉛筆の先が削れていく音と、木霊する運動部のかけ声。着々と色を濃くするヴィーナスは、彼女のこの考えを聞いて何を思っているのだろう。




「今日はこのくらいにしとこうかな。細かく描いてたらキリがないや。ごめんね、待たせちゃって」

「いや、気にしないでいいよ」

「すぐ片づけるから」




彼女の不思議な思考回路は、きっと誰にも読めない。だからこそ彼女は一人で、絵を描くことしか出来ないのだ。彼女はミロのヴィーナスに自分を重ねていたのだろう。そして彼女は、自分には何が欠落し、何が残されているのかを、必死に探し求めている。




「お待たせ、帰ろっか」




彼女の欠落した部分を俺は知っていて、それを埋めてやることも出来るけど、きっと彼女は、今のままが美しい。



おいしい君の煮込み方


















(参考:清岡卓行『手の変幻』)
中学生か高校生の時の教科書に載っていて読んだのですが、この話を書きながら思い出したのでちょっと入れてみました。このくらい解釈が曖昧なお話が書いていて一番楽しい。いろいろな解釈で読んでいただきたいです。


合同企画immortelleに提出
20120501 伊澤麗