野獣
野獣と言われている彼だが、わたしにとっては、野獣とはほど遠い人だった。
「苗字チャン」
「荒北くん、どうかした?」
「いや、呼んだだけ」
わたしは彼がロードレーサーとやらに乗っているところを見たことがない。文化部でいつも室内で活動してるから、自転車競技部の練習を見る機会がなかったのだ。
「そういえばサ、苗字チャンの絵、見たヨ」
「え?なんで?」
「あー、選択授業のときに。美術室にあったから」
「そっか、乾かしてたからか」
「あれって油絵?」
「そう。でもまだ完成じゃないよ。これからもっと細かく色を乗せていくの」
いつも、自転車競技部のメンバーと居るときは、声が大きくて、キャンキャン鳴く犬みたいだなんて失礼なことを思っていた。けれど、同じクラスになって、夏、荒北くんとわたしの席が前後になって初めて彼と喋ったとき、とても落ち着いた声で話しかけてきたから、少し拍子抜けしたのを今でもよく覚えている。
「荒北くんってさ、野獣って呼ばれてるんでしょ。東堂くんのファンの友達が言ってた。でも、普段はそんなことないんだね」
なんとなく、本当になんとなく、今まで思っていたことを口に出したのだ。そうしたら彼は少しだけ目を細めながらこちらに振り返って、言った。
「獲物を捕らえんのに、五月蠅くしたら逃げられんダロ」
口角を緩やかに引き上げて、そして何もなかったかのように身体を黒板へ向ける。チャイムの音が、籠もって聞こえた。